美少年軍団のドンが送る、愛するカレへのラブレター──泣く子も黙る芸能界のドンであるジョニーさん(84)に、大好きな男のコのコト、いろいろ聞いちゃえ!!

[今回のジョニタレさん]
飯島三智(59)

1957年2月20日生まれ。SMAPのチーフマネージャーとして、売れない時代から彼らを支え、現在の地位まで押し上げた功労者。

その敏腕ぶりが評価され、事務所の次期後継者候補とまでウワサされたが、2016年1月、SMAPメンバーを連れて事務所移籍を画策するも失敗に終わり、事務所を退社。見た目的には年齢よりも若く、キャリアOL風のあか抜けたファッションセンスの持ち主。ブランド物に目がなく、サザンオールスターズ、韓流アイドル好きというミーハーな一面も。ニックネームはミッチー。

――本日のジョニーの小部屋ですが、番外編としてスペシャルゲストをお呼びしてます!

ジョニー へ~。そうなんだ。
で、だぁれ?

――どうぞお入りください!

ジョニー ……え! ミ、ミッチー!?

ミッチー ジョニーさん……ご無沙汰してます。

ジョニー ……。

ミッチー 今さら会わせる顔もないと思ったんですが、ジョニーさんにはお世話になりましたし、きちんと謝罪をさせていただきたくて。

ジョニー ……。

ミッチー このたびは本当に、お騒がせしてしまい、申し訳ありませんでした。

ジョニー ミッチー。


ミッチー はいっ。

ジョニー ホントに……ご、ご、ごめんネ~(涙)!

ミッチー ええっ!?

ジョニー ボクはサ、メンバーだけじゃなくって、ミッチーも事務所に残れるようになんとかしてあげたかったんだけど……。メリー姉さんってああいう人だから、一度怒っちゃうと止められないじゃない? しかも、あんな大騒ぎになっちゃったから、もうどうしようもなくて。

ミッチー ……ジョニーさん!

ジョニー 長い間、事務所のために一生懸命働いてくれてありがとネ。感謝してるヨ。

ミッチー そんな……。
そのお言葉だけで私は十分です。こちらこそ、ありがとうございましたっ。

――……いやぁ~、どうなることかと思いましたが、感動の再会になってホッとしました。日本中に激震を与えたSMAPの解散・独立報道。育ての親でもある飯島さんが「5人のために」と身を引いたことで、あっけないほどあっさり収束しましたが、事務所を退社されたあと、どんなふうに過ごされていたんですか?

ミッチー そうですね。騒動が過熱したことでネットに名前や顔写真もばらまかれてしまったので、とりあえず落ち着くまでは……と海外に出ていました。
帰国後は長年会えずにいた友達と会ったり、のんびり過ごしていますね。でも、同級生の中には、孫ができておばあちゃんになってる人もいたりするんですよ。気がついたらそんな年代なんですから、笑っちゃいますよね。

――これまで、SMAPのために尽くしてきた人生でしたね。

ジョニー ミッチーとボクが初めて出会ったのは、35年以上前だったよネ。音楽プロデューサーの酒井政利さん(現・酒井プロデュースオフィス代表取締役社長)が「友達の娘さんなんだけど、何か仕事ない?」って、大学卒業したばかりのおとなしそうな女の子を連れてきて。
お嬢様っぽいスレてない姿にも驚いたけど、「ジョニーズのことも芸能界のことも、ほとんど知りません」って堂々と言うから笑っちゃったヨ。

ミッチー  事務の仕事だって言われて、正直、お嫁に行くまでの仕事のつもりで気楽に入っちゃったんです。最初は経理やファンクラブの運営をしていたのが、いつの間にかマネジャーをやることになって……。

――SMAPの前身である「スケートボーイズ」が結成されたのが87年。翌88年には光GENJIが、のちに日本レコード大賞も受賞する「パラダイス銀河」で100万枚の大ヒットを飛ばすなど、まさに社会現象化していた頃でした。

ジョニー そう! トレードマークだったローラースケートが大ブームになったから、「滑るもの……次はスケボーだ!」って「スケートボーイズ」を作ってみたの。
でもスケボーじゃ、滑りながら歌ったり踊ったりするのが難しくてサ。バックにつくときも、光GENJIの後ろをスケボーで一瞬通過するだけなんだもん。あれはつまんなかったなぁ。

――そもそも発想が安易すぎるんですよ! そうしてスケートボーイズの中から6人を選出して「SMAP」が結成されたわけですが、当時の資料を見ても、稲垣くんや草なぎくんの代わりに国分(太一)くんや坂本(昌行)くん、岩佐克次くん(芸能界を引退)が加わっている日もあったりして、流動的でしたよね。

ジョニー そうだっけ? 忘れちゃった。まあ、人数同じならたいして影響ないし、気づかれないかな~って。

――適当すぎますよ!

ジョニー だってサ、あの頃は、光GENJIだけじゃなくて、男闘呼組が「DAYBREAK」でヒットしてたり、忍者の前身の「少年忍者」もジワジワ人気出てきてて、いろいろ忙しかったんだもん。そのあとすぐに、バンドブームの影響で光GENJIの人気に陰りが出てきて、男闘呼組も「アイドル売りは嫌だ!」とか身勝手なこと言い始めるし……。「じゃあSMAPをデビューさせちゃえ!」と思ったら、壊滅的に歌がヘタでサ。笑っちゃったよ。

――その後、1年間の練習期間を経て、91年9月に「Can’t Stop!! ‐LOVING‐」でCDデビューを果たしたSMAPでしたが、デビュー曲はまさかの2位。出す曲は必ず初登場1位に輝くというジャニーズ事務所の慣例を崩してしまったのも、彼らが初でした。

ジョニー 「YOUたち、なんで2位なんだ!?」って、思わず激怒しちゃったからネ。西武園ゆうえんちやこどもの国で握手会開いても、たいしてファンが集まらなくてサ。地方のカラオケ大会ばりに、ステージに紅白幕を掛けてた会場もあって、さすがにあれはシビれたなぁ。ライブでもファンが数えるほどしかいなくて、メンバーも「ファンの顔と名前、全員わかる」って自虐トークしてたしネ。

ミッチー しかも、当初はマネジャーがいなくて電車移動だったうえに、小学生だった(香取)慎吾がスケジュールの連絡係をしてたんです。携帯電話なんてなかったから、ランドセル背負ったまま事務所に来て、みんなに電話して……って、そんな様子を見るに見かねて、私がお世話係みたいな形でついたのが始まりでしたね。フツーの小学生ならまだしも、慎吾は完全に野生児だったから、余計に放っておけなかったんですよ。
>ジョニー おなかすいたからって、その辺に生えてる雑草にマヨネーズつけて食べたり、ちょっと甘いからってアリをつまんで口に入れて舐めたりとか……フツーしないでしょ!? まぁ、その天真爛漫なところが慎吾の魅力でもあったんだけどネ。

――そんな香取くんに「協調性をつけさせたい」と思ったお母さんが、ジョニーズかボーイスカウトか迷って、ジョニーズに応募したらしいですね。まさに習い事感覚(笑)。

ジョニー>まぁ、6人の中では森且行が一番アイドルらしかったかな。中居正広は当時も現役で田舎のヤンキー兄ちゃんだったし、木村拓哉はナイフのようにとんがってあちこちでケンカ売ってたし、稲垣吾郎は甘えん坊の箱入り息子で、ダンスもヘタで空気読めないタイプだったし、草なぎ剛はバック転だけが取り柄のオタクで何考えてるかわかんなかったし……。デビューさせたはいいけど、これは売れないかもなぁって考えてたとき、ふと目に止まったのがミッチーだったんだよネ。衣装も支給されない彼らのために、光GENJIのお古の衣装に徹夜でスパンコール縫い付けてくれてるミッチーの姿を見てサ、「ああ、こういうママみたいな存在がいてもいいのかな」って。

――なんだかんだいって、体良く押し付けただけなんじゃ……。まあ、その後も曲は全然売れないまま、「歌って踊れるアイドル」としてはやや不良品気味の彼らでしたが、国民的スターの座を射止める足掛かりとなったのは、バラエティ番組『夢がMORI MORI』(フジテレビ系)への出演でしたね。

ミッチー 芸人さんみたいな面白さはありませんでしたけど、個性はそれぞれはっきりしてたんですよね。女性でも森口博子さんや山瀬まみさん、井森美幸さんみたいなバラドルが活躍し始めていた頃でしたし、「アイドルがバラエティやるって面白いかも!」と、事務所に提案したんです。当時はジョニーズといえばまさに「白馬に乗った王子様」で、トイレも行かない……みたいなイメージでしたからメリーさんは大反対でしたけど、味方して説得してくれたのがジョニーさんでした。だから、SMAPをバラエティで開花させた真の功労者はジョニーさんなんですよ。

ジョニー いやぁ、照れるなぁ。

――実際、当時番組ディレクターを務めていた荒井昭博さん(現フジ・メディア・ホールディングス総務局長)も後のインタビューで、「積極的な理由でSMAPを起用したわけではなく、ジョニーさんに『彼らを使ってやってほしい』と懇願されたのが一番の理由でした」と正直に明かしています。メンバーがあまりにもヒマでスケジュールが空白だったため、「30分番組のために、週に4日も割いて番組を作り込むことができた」ということですが、そんな恵まれた環境とも相まって、『夢MORI』は深夜枠では異例の視聴率19%超えを記録。SMAP人気もジワジワと上昇し、荒井さんの肝いりでメンバーが『笑っていいとも!』(同)のレギュラーに抜擢されたり『SMAP×SMAP』(同)がスタートしたりするなど、フジテレビとの蜜月関係も構築されていきました。

ミッチー 荒井さんは、真面目にコントの台本を読み込んでいるメンバーの姿に心を打たれたみたいで……。「アイドルのくせに、笑いに対して真摯で礼儀正しい。こいつらとなら心中できる」って、よく言ってくれてましたね。

――ヅラをかぶるなどアイドルが体を張って笑いを取る……という意外性はもちろんですが、それぞれのイメージカラーを強調したのも成功のもとだったといわれています。これは飯島さんのアイディアだったとか?

ミビジュアルでぱっとわかる要素を強調することで、メンバーを覚えてもらえるかなって。もともとは戦隊ヒーローから得た発想なんですけど、中居を青、木村を赤、森は白、吾郎をピンク、草なぎは黄色、慎吾は緑……ってイメージを決めて、コントはもちろん、ステージ衣装やCDジャケットなどでも採用して印象づけたんです。

――なるほど。光GENJIもそれぞれメンバーカラーがありましたが、世間一般にまでより浸透したのは、SMAP以降というイメージがあります。

ジョニー 森は白……かぁ。でも本当、森の脱退のときは悲しかったよね。ボク、今でもあのときのこと思い出すと 涙出ちゃうヨ。

――勝手にオートレーサーの試験を受けた森くんに対して、メリーさんは激怒。辞めた後もネチネチと圧力をかけ続けていましたが、飯島さんは彼の味方であり続けたんですよね。木村くんも後のラジオで「この人やっぱすげぇなぁって思ったのは、森がバイクの世界に行くってなったときに良き理解者だったこと。アドバイスしてあげたりしてて、『あっ、この関係性って羨ましいな』って、傍から見てても思いましたね」と振り返っていました。

ミッチー  アイドルであっても、彼らには彼らの人生がありますから。前向きに進もうとしてるからこそ、応援してあげたかったんです。

――当時のファンによると、「森くんの最後の仕事になった番組の収録の後、集まった100人以上のファンに向かって飯島さんが『みんなで花道作ろう!』と呼びかけてくれて、受け取り(ファンレターやプレゼントを渡す)の場を作ってくれた」とか。涙目でそれを見守っていた飯島さんの姿が印象に残っているそうです。

ミッチー 私も、あのシーンは忘れられませんね。森も、きっと覚えてくれていると思いますよ。

――それ以外にも、飯島さんのファンに対する「神対応」は有名ですよね。「中居くんが『私服だらけの中居正広増刊号』(扶桑社)の発売記念の握手会を開いたとき、猛暑の中集まった1,000人以上のファン一人ひとりに飯島マネが笑顔で『ありがとうございます』って丁寧にお礼を言ってくれた」とか、「キスマイの藤北(藤ヶ谷太輔と北山宏光)の現場にやらかしが押しかけて2人がうんざりした顔してたら、『ちゃんと対応してあげて』って飯島さんが笑顔で諭して、簡単に受け取りができるようにしてくれた」とか。もともとジョニーズの場合、メリーさんやジュリーさん、仕切りのT子さんをはじめ、当たりのきつい人が多いので、飯島さんの笑顔と優しさが、より印象に残るんでしょうね。

ミッチー いくらスターになっても、ファンあってこそのアイドルですからね。天狗になるのは簡単ですけど、当たり前のことが感じられる常識人でもいてほしいんです。

ジョニー ねえねえ、盛り上がってるとこ悪いけど、ボクのことも忘れないでよネ。ファンだけじゃなくて、“ジョニー”がいてこそのジョニーズだヨ!

――はいはい、そうですそうです。いやぁ、それにしても、中居くんの妊娠中絶強要騒動に続き、木村くんのできちゃった婚、稲垣くんの道交法違反&公務執行妨害による逮捕、草なぎくんの飲酒全裸による公然わいせつ罪での現行犯逮捕など、並べてみると、グループが存続できたことが不思議なくらい問題行動のオンパレードですが、そのたびごとに飯島さんが奔走して乗り越えてきたんですもんね。尊敬しちゃいます!

ミッチー  そんな……。迷ったり悩んだりしながら夢中でやってきただけですから。全然すごくなんてないですよ。

――いえいえ、そんな飯島さんだからこそ、結果的に離れてしまったとはいえ、今もメンバーにとって特別な存在なんだと思います。騒動直後の『スマスマ』では、サザンオールスターズの「涙のキッス」を草なぎくんが選曲して、メンバー全員のセッションで歌ったわけですが、飯島さんがサザンの大ファンだから、この曲を選んだんですよね。メンバーからの愛のメッセージだったのかなと思うと、余計に心に染みました。

ミッチー もう……あの子たちったら……ねえ。

ジョニー イヤ、それはどうかな。

ミッチー え?

ジョニーあれってサ、ミッチーへのメッセージじゃなかったと思うんだよネ。

――どういうことですか?

ジョニー <ボクね、前々からメンバーには話してたんだけど、日本の歌謡界の中で「歌がうまい」って認めてるのは、美空ひばりさんと桑田佳祐くんだけなんだヨ。

ミッチは、はぁ。
ジョニーだからサ、それ知ってるメンバーが、ボクのために歌ってくれたんだヨ! やっぱり、なんだかんだ言って、みんなボクのことが一番……。

(バタンとドアが開く) ちょっと待った~!

ミッチー !?
ジョニー え、メリー姉さん! ジュリーまで! どうしてここに!?

ジュリー さっきから黙って聞いてれば、好き勝手なことばっかり言って!

メリー ミッチー、あんた、自分のことだけ美談で終わらせようとしても、そうはいかないからね。あんたのおかげで、私はファンから「パワハラ」「老害」って極悪人のように言われて、解任署名運動まで起こされちゃったんだから!

ジュリー そうよ! 今さらいい人ぶったって遅いわよ。敵と味方を露骨に差別して、仲のいい業界関係者だけで「飯島会」作ってた話とか、スタッフにブランドものを貢がせて、その値段でSMAPを番組に出演させる順番を決めてたとか、権力振りかざしまくってたのもバレてるんだからね。

ミッチー そ、そんな大げさな。仲のいい人で集まって、たまに食事会してた程度ですよ。プレゼントだって、「どうしても」っていうから、たまに受け取っていたくらいで……。

ジュリー ふんっ。いま持ってるヴィトンの新作バッグだって、どうせ貢ぎ物なんでしょ!

ミッチー 失礼なこと言わないでください。これは私が自分で買ったモノです! そもそも、幹部の身内ってだけで、実力もないくせに偉そうに振る舞ってるあなたに言われる筋合いないですよ。結婚出産、育児休暇まで取ってたあなたと違って、こっちは人生捧げてきたんです。ちょっとくらい楽しみがあったっていいでしょ!

ジュリー な、何よ、その言いぐさ!

メリー ついに本性が出たわね。
ミッチー   やる気ですか? どうせ私はもう失うものなんてありませんから!

ジョニー ま、まぁ3人とも落ち着いて。もっと平和に話し合おうヨ。ピース、ピース!

メリー シャ~ラップ! あんたは引っ込んでなさい!

ジュリー そうよ、事務所にでも行って、ちびっこJr.とワチャワチャしてればいいでしょ!

ジョニー そ、そんなぁ。

――あわわ。そしたら、あとは皆さんで話し合っていただくということで……。それでは強引ですが、今日の「ジョニーの小部屋」は、ここで終わりということにします。でも、飯島さんはここで終わってしまう方ではないはず! またどこかでお会いできることを、心から期待してま~す。

[ミッチー(とSMAP)年表]
81年頃 大学卒業。音楽プロデューサー・酒井政利氏の紹介によりジャニーズ事務所に入社。当初は事務員として働いていた
88年4月 SMAP結成
91年9月 SMAPが「Can’t Stop!! ‐LOVING‐」でCDデビュー。鳴かず飛ばずな彼らのお世話係をするうちに、いつしかマネジャー業を押し付けられる。
91年秋頃 バラエティ番組に活路を見いだし、売り込みをスタート
92年4月 深夜バラエティ『夢がMORI MORI』(フジテレビ系)開始。狙いが当たり、SMAP人気が上昇!
94年3月 シングル「Hey Heyおおきに毎度あり」でオリコン1位初獲得。デビュー3年目にして念願の快挙。
96年4月 フジテレビと蜜月関係を築き、冠バラエティ『SMAP×SMAP』(同)スタート。以降20年間続く長寿番組に。
96年5月 森且行がSMAP脱退を発表し、オートレーサーに転身。メリーさんから「管理がなってない!」と激怒され、この頃から飯島氏に対するメリーさんの印象が悪くなる。
96年4~6月 木村拓哉が、初主演ドラマ『ロングバケーション』(同)で最高視聴率36.7%を記録。
97年12月 中居正広が『NHK紅白歌合戦』の司会に。このあたりからドラマや司会業など、メンバーの進む方向を定め始める。
00年 ゴシップ雑誌「噂の眞相」(噂の真相)が、中居の妊娠中絶強要疑惑を掲載。立ち会ったミッチーが相手に対し、「あなたのエゴで遊び相手の子どもを産んでも、あなたも子どもも不幸になるだけ」と身勝手な説得を繰り返したと報じられる。
00年 木村が工藤静香との“できちゃった婚”を発表。静香がメリーにソツなく取り入ったため、この時はお咎めなし。
01年8月 稲垣吾郎が渋谷区内の路上で道交法違反、および公務執行妨害で逮捕される。この時、愛車・マセラティの中にこもった稲垣が電話で助けを呼んだ相手こそミッチー。
04年頃 世の中のブームに乗っかり、韓流アイドルに夢中に。権力を使って、テレビ局社員にアイドルとの飲み会をセッティングさせたとのウワサも。
09年4月 港区内の公園で、草なぎ剛が泥酔&全裸で大声を出し、公然わいせつ罪で逮捕。駆けつけるも助けるすべなし。
09年11月 CM撮影のために訪れたNYタイムズスクエアで一般人のおばさんと間違えられ、セキュリティに追い返されそうになり、名刺を見せて激怒。
10年ごろから 経営陣の高齢化、東山紀之の結婚などの動きの中で、後継者候補としてジュリーと並んでミッチーの名が挙がるように。ジョニーさんの計らいにより、SMAPの映像権利を持つ子会社ジェイ・ドリームの取締役にも就任。
11年 ジョニー氏に手腕を買われ、ソロになった山下智久、キスマイ、Sexy Zoneなど若手のマネジメントを任される。「エロP」は失敗したものの、キスマイはSMAPとのセット売りで人気がやや上昇。
15年1月 後継者争いが激化。「週刊文春」(文藝春秋)のインタビューに対して激高したメリーさんがミッチーを呼び出し、「後継者はジュリー。対立するならSMAPを連れて出て行け!」と言い放つ。
16年1月 「SMAP分裂&解散」が一斉に報じられる。紆余曲折の末、同月半ばにミッチーが事務所を退社することに。
16年1月18日 『SMAP×SMAP』内でメンバーが公開謝罪を行い、騒動は収束へ。