ついに開幕まで1ヵ月半を切ったラグビーW杯日本大会。そのタイミングで池井戸潤氏がラグビー小説を発表――。
大手自動車メーカー・トキワ自動車が擁する社会人ラグビー部アストロズをめぐる群像劇。TBS日曜劇場で放送中のドラマ版(主演・大泉洋さん)も好評な同作は、4年に一度の大イベントを前にしたラグビーファンのみならず、幅広い層から注目を浴びている。
企業スポーツを巡る組織内外の攻防など、通常のスポーツ小説の範疇にとどまらない人間ドラマにも魅せられる一作。ラグビーをモチーフに選んだ理由、そして作品に込めた思いを池井戸氏に聞いた。(文/大谷道子)一度は“全ボツ”にした物語
「ラグビーにはそんなに縁はなくて、大学のときに試合をちょっと観たことがあるくらい。それが、5年ほど前にラグビー関係者と話す機会があって、あるチームの再生にまつわる話を聞いたんです。面白いな、これをいつか小説にできるかなと思っていて……」
日本代表選手を数々輩出しつつも、近年は成績不振に喘いでいた名門実業団チーム。そこに、ひとりの新任GM(=ゼネラル・マネージャー)が送り込まれるところから、『ノーサイド・ゲーム』は始まる。男の名は君嶋隼人。ラグビーボールには触れたこともない初心者だった。就任が決まったのは、ひとえにトキワ自動車社内の事情。
「まったくラグビー経験がない人がGMに指名されることは、現実にはありません。でも、君嶋を主人公に設定することで、ラグビーに馴染みのない人でも、彼と同じ素人目線で物語を読んでいける。かなり効果的だったのではと思います」
ラグビー小説といっても、そこは池井戸作品。会社という組織の中に置かれたひとりの人物の運命のボールがラグビーというスポーツのフィールドへと鮮やかに転がり込むことで、読者はあたかも自分が新人GMの君嶋になったかのように物語へと引き込まれる。君嶋は会社員としての誇りを懸け、チームは復興を目指し、一心同体となって再起を図るのだが、ここで思いもかけない変節が作者である池井戸氏の側に生じたのだ。
「最初はチーム再生の物語のラインに乗った、わりとストレートなラグビー礼賛小説だったんです。それが(原稿用紙400字詰め換算で)600枚くらい書いたところで、どうも自分の中で納得がいかないモヤモヤが残って。結局、それをいったん全ボツにしました」
「One for all, All for one」が通用するのは日本だけ?「最初はもう少し日本のラグビーを信じていたんです」と池井戸氏。
「ラグビーといえばよく聞くのが、『One for all, All for one』(=ひとりは皆のために、皆はひとりのために)という有名なフレーズ。でも調べてみたら、この言葉をラグビー用語として使っているのは日本だけらしいんです。ラグビーの本場であるニュージーランドやオーストラリアのラグビー関係者に尋ねたら、「それって三銃士(アレクサンドル・デュマの小説)のフレーズでは?」と。タイトルに使った『ノーサイド』(=試合終了後は敵も味方もなくなり、お互いの健闘を称え合うというラグビーの精神を象徴する文句)という言葉も日本では多くの人が知っていますが、世界ではもうラグビー用語としては使われていないこともわかった。断言はできませんが、どうやらラグビーのイメージは日本で独自の進化を遂げているようですね」
さらに取材を行う中で心に募っていったのは、現状への疑問だった。
「ラグビーの社会人リーグについて『儲かってるのかな?』と興味が湧いて、財務諸表を調べてみた。そうすると、採算が取れていないことがわかったんです。たとえば、ラグビーより後発のBリーグ(国内男子プロバスケットボールリーグ)はラグビーの4倍近くの額を売り上げている。なぜかというと、Bリーグは高い放映権料に加えて、チケットをインターネット販売に一元化していて、どんな属性の誰がどこの試合を買っているか、すべて把握しているからです。
ところがラグビーは観客を獲得できていない。2015年のワールドカップで南アフリカに歴史的な勝利を収めた直後のトップリーグの試合でも、2万人収容のスタジアムの半分が空席でした。
「建前の世界と本音の世界があるとしたら、最初の原稿は完全に前者の世界で書いていた。そりゃあ、つまらないはずですよね。そんな生煮えの状態の作品を世に出すことはできない。あれこれ考えましたが、やっぱり小説は本音の世界でしか成立しないもの。最終的にはそういう、当たり前のところに回帰したんです」
本音で、初心者にもわかるように書く確かに完成した『ノーサイド・ゲーム』には、過去の作品のいずれとも異なる“熱”がこもっている。それはやはり、怒りの熱だ。作品の中でシーンや主体を変えながら何度も発せられる、日本ラグビーの現状への叱咤。君嶋はラグビーでは素人だが、素人だからこそ見える真実もまた、あるのだ。
「ついつい作者の人間性が出てしまった(笑)。でもやっぱり、書かざるを得なかった」と池井戸氏。
「悪い上司たちの言い分がいちいちもっともだったりするのが、なかなか難しいところでしたね(笑)。この作品で大事にしたのは、まず『ラグビー初心者でもスラスラ読める』こと。たとえば、フィールドの中の選手たちのドラマをもっと書き込んでコアなラグビーファンに向けて訴える書き方もあったと思いますが、多くの人が読むことを前提にしたエンタテインメントでは、書き込みすぎるとついてこられなくなる。そのため、15人の選手の中から主要な人物を絞り込んで描写しました。あと、当初は工場の場面、本社の場面、ラグビー場の場面が時系列で入れ子状になっていたんですが、場面がコロコロ変わるのが気になったので、それを整理して、『ファースト・ハーフ』『ハーフタイム』『セカンド・ハーフ』という名の3章にそれぞれの場面を集約させました。実はこれ、呼び名も含めてラグビーの試合と同じ構成になっているんですが、ずいぶん読みやすくなったと思います」
ラグビーもビジネスも、自力で正面突破が基本それにしても、主人公の君嶋はなんとタフな男だろう。左遷され、畑違いの役職を押し付けられたうえに、そこで頑張れば頑張るほどさらに叩かれる。しかし彼はくじけることなく、逆に自らの強みである経営的センスをラグビーチームの運営に活かそうと奮闘する。その姿勢からは、正面突破こそがいちばんの近道であるという、作者からのシンプルで力強いメッセージが滲む。
「君嶋はやっぱり、頭にきていたんだと思いますね。このラグビー界の体たらくに。GMではなく一会社員の立場だったら、彼だってケチョンケチョンに言いたいところだと思います。でも、いったん引き受けてしまったからには最善を尽くす。会社員としての彼のストレートさは、たとえば半沢直樹なんかとはちょっと違う感じです。まあ、大企業に勤める人間は『これをやれ』と言われたら、なんだかんだいっても頑張ってしまう人が多いんでしょうね。あまり出世はできそうにない気はしますが(笑)」
《劣勢にあるときこそ、真の力が試される》という作中のフレーズ。ここにグッと心を掴まれないビジネスパーソンはいないだろう。しかし池井戸氏は、ビジネスシーンにおける逆境での戦い方については「アドバイスとして言えること? ないですね」と突き放す。
「まあ、唯一言えるとしたら『自分で考えてください』ということです。インタビューでもよく『仕事で壁にぶつかったときのアドバイスを』という質問を受けますが、安易に他人に答えを求めちゃいけないと思う。だいたい、そんな個別の課題をすぐに解決できる回答なんか出せないでしょう。
いみじくも、作中、ある人物にアストロズの存在価値について問われた君嶋は、こう答えている。「それはあなたがアストロズにどんな意味を求めるかによります」と。まるで人生における真理問答のように胸に残る。
ワールドカップ2019は、最後のチャンスかもしれないとにもかくにも、作品は世に出た。大泉洋さんが君嶋隼人に扮したドラマ版『ノーサイド・ゲーム』も放映が始まり、妻役に松たか子さん、君嶋の敵となる上司役に上川隆也さんという豪華なキャストの熱演が評判に。また人気ミュージシャン・米津玄師さんが手がけた主題歌『馬と鹿』が初回にサプライズ発表され、話題を呼んだ。
「僕が楽しみなのは、やはり試合のシーン。そこばかりは小説では描ききれないところですから。元日本代表の廣瀬俊朗さんも参加するラガーマンのキャストも、はじめて聞いたときは相当に驚きました」と池井戸氏。監督を務めるのは、『半沢直樹』『ルーズヴェルト・ゲーム』『下町ロケット』『陸王』を手がけたTBSドラマ制作部の名将・福澤克雄氏。数々の池井戸作品に熱い血を行き渡らせた手腕、そして自身、学生時代に名ラガーマンとして活躍した監督による迫真の試合映像には否が応でも期待が高まる。
「実は福澤さんと僕は、同じ大学に同年代に在籍していました。ドラマ『半沢直樹』で出会った後に知ったんですが、当時、彼の試合を見ていたんです。体の大きなロック(ラグビーのポジション名)だった。まさか数十年後にこういうことになるとは(笑)」
ワールドカップに先がけ、ラグビー界にとってもますます暑く、熱くなりそうな令和元年の夏。『ノーサイド・ゲーム』は、その火蓋を切る作品となるだろう。最後に日本ラグビー界への期待を尋ねると、君嶋ばりに辛辣な、しかし愛情の熱がこもった回答が返ってきた。
「ワールドカップで1勝か2勝すれば、何とかなるかもしれない。逆に、ここで勝てなかったら本当に子どもたちはやりたがらなくなりますよ。だから、最後のチャンスだと思って、底力の頑張りを見せてほしいですね」