13世紀に出現したモンゴル帝国は当時の「世界最大の国」でした。そんな国が「元寇」で小さな島国である日本への侵攻にこだわったのはなぜでしょうか。

そして、「知の巨人」とも称される出口治明氏がこのモンゴル帝国を「今こそ学ぶべき」と注目する理由とは?(ダイヤモンド編集部副編集長 鈴木崇久)

モンゴル帝国が「元寇」で
日本侵攻にこだわった戦略的理由

 チンギス・ハンが1206年に建国したモンゴル帝国は、長い世界史の中でも大英帝国と一二を争う巨大さだったとされます。ユーラシア大陸を覆うように領土を拡大していきました。

 そんな13世紀当時の世界最大の国は「元」に国名を改めた後に日本と歴史が交差します。それが日本史で習うあの有名な「元寇」です。

 1274年には約900の船隊に3万人以上の兵を乗せて襲来し、1281年には約3500の船隊に約10万人の兵を乗せて日本に攻め込んだとされています。しかし、「神風」と呼ばれた暴風雨のおかげもあり、日本は国土を守りきりました。

 世界最大の帝国による二度の侵攻に、小さな島国の日本が耐えた――。そんな奇跡としか言いようがない史実に注目が集まりがちですが、モンゴル帝国(元)が日本侵攻を諦めきれずに二度も攻めてきたのはなぜなのでしょうか?

「日本のような小国を落とせないようでは帝国の沽券に関わる」という事情もあったかもしれません。しかし、モンゴル帝国にとって日本侵略という作戦は、領土拡大戦争の戦略上、重要な意味を持っていたのです。そしてその理由を知ると、世界史と日本史が交わって歴史の奥深さや楽しさを実感できます。

 では、『世界最大のモンゴル帝国が日本侵攻にこだわった理由【世界史でわかる日本史】』という記事の中から、その理由をご紹介しましょう。

モンゴル帝国は日本を服属させて
海軍を組織したかった

 答えを先に言ってしまうと、モンゴル帝国は日本を侵略して服属させ、海軍を組織しようと考えていたようです。

 その背景には、当時モンゴル帝国が中国全土の統一に向けて南宋に侵攻していたという事情があります。

「150年間中国を支配してきた南宋の抵抗は激しく、戦いは膠着状態。戦況の打開を図ろうと、南宋の西側に位置する大理国を征服。東側は朝鮮半島を統治していた高麗を支配。南宋の退路を断ちます」(『世界最大のモンゴル帝国が日本侵攻にこだわった理由【世界史でわかる日本史】』より)

 その上でさらにモンゴル帝国が欲したのが、海から南宋を追い詰めるための海軍でした。「海軍を持たないモンゴル帝国にとって、海上艦隊の確保は喫緊の課題だったのです」(同)。

 日本史に登場する元寇について、このように世界史の1ピースとして捉えると、全く別の見方ができて面白いと思いませんか?

 ただ、この時に日本がモンゴル帝国に敗れて侵略されてしまっていたら…という「歴史のif(もしも)」を考えるとゾッとします。必死の思いで日本を守ってくれた当時の人々への感謝を忘れてはいけませんね。

「現代の知の巨人」出口治明氏が
モンゴル帝国に注目する理由

 このモンゴル帝国ですが、実は「現代の知の巨人」とも称される出口治明氏(立命館アジア太平洋大学学長)が世界史の中で注目すべき存在としてその名前を挙げています。

 出口氏の寄稿記事『出口治明氏が世界史「4つの分岐点」を解説、モンゴル帝国に注目の理由』の中で、学ぶべき歴史テーマとして「グローバリゼーションとモンゴル帝国」をピックアップしているのです。

 その理由について出口氏は、同記事の中で次のように解説しています。

「(モンゴル帝国は)ユーラシア規模で、織田信長の楽市楽座政策を実施した。

関税などを全て撤廃し、自由貿易を促進した。TPP(環太平洋経済連携協定)を大きく進化させたようなものだ」

「当時の国際通貨である銀の流通を促し、陸と海を結んだ交易ルートを発展させ……と真のグローバリゼーションを実現している」

 そして、「日本は教材とすべきだろう」と結んでいます。

 なお、今回ご紹介した2本の記事では、以下のようなポイントも解説しているので、ぜひ基の記事も併せてご覧ください。

>>世界最大のモンゴル帝国が日本侵攻にこだわった理由【世界史でわかる日本史】
・日本の鎌倉幕府始動と欧州の十字軍遠征、モンゴル帝国の隆盛などが交わる歴史の交差点を会話形式で解説

>>出口治明氏が世界史「4つの分岐点」を解説、モンゴル帝国に注目の理由
【世界史「4つの分岐点」】
・近代国家の源となった(1)産業革命、(2)フランス革命、皇帝ナポレオン
・現代を形作った(3)第2次世界大戦、ルーズベルトによる戦後秩序
・今こそ学ぶべき源流(4)13世紀モンゴル帝国

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