岡山県津山市にある小さな縫製工場、笏本縫製が立ち上げた自社ブランドのネクタイが、カジュアル化が進みスーツ離れが進む中、売り上げを伸ばしている。17年前、当時社長だった母から「私の代で潰すから、お願いだから継がないで」と言われた現社長の笏本達宏さんは、なぜ美容師を辞めてまで事業を継いだのか。
フリーライターのメリイ潤さんがリポートする――。(前編/全2回)
■「絶対に継がない」と決めていた
「私の代で潰すから。お願いだから継がないで」
祖母の代から40年続く縫製工場で、当時、美容師として働いていた笏本達宏さんは、2代目社長の実の母親・たか子さんから、そう懇願された。
当時の会社全体の売り上げを占めるのは、縫製の下請製造が100%。しかし、縫製の仕事は、単価の安い海外へどんどん流出している時代であった。会社には多額の借金。職人の給料を支払うのにやっとの状況。
それでも2008年、母親の制止を振り切り、美容師を辞めて、“お先真っ暗”の家業に入社した。
それから17年、会社全体の売り上げは約3倍に。2015年に販売を開始した自社ブランド「SHAKUNONE(シャクノネ)」は、岸田文雄首相(当時)やアメリカのバイデン大統領(同)、さらにはフィリピンのフェルディナンド・マルコス・ジュニア大統領も着用。現在では、年間約4000本が売れるブランドに成長した。
人口約10万人の岡山県津山市。
従業員数は12名。地方の小さな縫製工場の3代目社長笏本さんは幼少期、心に決めていたことがあった。
「絶対に家業は継がないでおこう」
■職人が手仕事で仕立てる“お守り”
「SHAKUNONE(シャクノネ)」のネクタイは、購入者の約7割が女性。つまりは、ギフトとして誰かにプレゼントしたくなる商品だといえる。
笏本さんは、ネクタイの歴史について教えてくれた。
「ネクタイの起源は、500年ほど前に女性が戦地に向かう男性に贈ったスカーフという説があります。ネクタイは、大切な人の無事や幸せを願う“お守り”だと、私は考えています」
工場では、職人が1本1本手作業で仕立てる。決して大量生産はしない。どれだけ時間がかかっても、職人の手仕事でしか生み出せない風合いにこだわり続ける純国産の“お守り”。
身体の真正面で人の印象を決めるネクタイには、大切な人を想う気持ちが込められている。
■ベビーベッドは段ボール箱
笏本縫製の創業は、1968年。笏本さんの祖母・玉枝さんが工業用の特殊ミシンを数台購入し、自宅の一室で始めた。
早くに夫を亡くした祖母は、「生きていくために」と、ありとあらゆる縫製の仕事を請け負った。朝も昼も夜も働いた。他の人が難しくて断るような仕事を、テキパキと何百枚も仕上げる「自称 魔法使い」だった。
笏本さんは、玉枝さんと同居する父母のもと、1987年、ミシンの音が聞こえる家に長男として生まれた。母親は出産後、「子どものそばにいながら働くことができる」と、祖母の仕事を手伝うようになった。
自宅兼工場の中に置かれた段ボール箱が、笏本さんのベビーベッド。子守唄は、ミシンの音だった。
■「ダサい」「華がない」「儲からない」
9歳の時に両親が離婚。笏本家は、曾祖母、祖母と母、笏本さんと2人の妹の6人暮らしになった。母親も昼夜問わず、休みなく働いた。
遊びに連れて行ってもらうことも、オモチャを買ってもらうこともなかった笏本少年は、近所の山でひたすら穴を掘っていた。「秘密基地を作る!」と夢を抱き、笏本さんは毎日穴を掘り続けた。

好奇心旺盛で、人前に出ることも好きだった笏本さんは、小学校では児童会長、高校では応援団長を務めた。
「当時、家業のことをずっと、『ダサい』と思っていました。下請仕事なので、表舞台に立つことがない。黒子みたいで、『華がない』。納期に追われて、朝から晩まで働き詰めなのに、『儲からない』。当時の母親の得意料理は、『日清のカップヌードル』でした。母親の卵焼きを食べた記憶がないんです」
うちには、どうやら借金もあるらしい。祖母も母親も休みなく働いているのに、なぜこんなにも苦しそうなのか。
だから、「家業は絶対に継がない」と心に決めた。
3歳と6歳下の2人の妹たちとも、「大人になって、母親と同じ仕事はしたくないね。絶対に継がないでおこう」と、誓い合った。
■働きながら資格を取り美容師に
「子どもの頃、母の髪の毛を触るのが好きだったんです。
細くて、ひんやりしてて」
指どおりがよく、ひんやりした母の髪の毛を、手櫛ですべらせるのが好きだった笏本さんは、「ずっと髪の毛を触れる職業=美容師」の道に進むことを決意した。
高校の普通科を卒業後、地元の美容室に就職した。「本当は、美容の専門学校に通ってスクールライフを満喫したかった」という笏本さんだったが、これまで仕事に家事にと精力的だった祖母が体調を崩し、笏本縫製は祖母から母親に代替わりした。しかも当時、2人の妹は小学生と中学生だった。もし、笏本さんが家を出てしまうと、母親がすべてを背負うことになる。美容の専門学校は、地元から通える範囲にない。学費もかかるため、実家から通える就職先を選んだ。
美容室で働きながら妹たちの高校や塾の送り迎えをしつつ、通信教育で勉強をして、3年間で美容師の国家資格を取得した。時を同じくして母親の体調が悪化し、手術が必要になった。母親から、「繁忙期なのに……。工場の人手が足りない」と言われ、美容室の仕事を終えた後、工場に向かった。
自宅の隣にあるとはいえ、入るのはかなり久しぶりの工場。
一歩足を踏み入れ、目を見張った。
そこには、有名ブランドのネクタイがずらりと並んでいたのだ。
「どうせ、うちの工場では、安価な無名の商品を大量生産しているんだろう」と、想像していた笏本さんはそのとき、純粋にこう思った。
「うちの家、実は、すごいんじゃね?」
■1年かけてネクタイ専門縫製工場に
笏本さんは、母親から笏本縫製の歴史を聞いた。
祖母が縫製工場を始めた当初は、主に学生服のボタン付けやカッターシャツのボタン穴開けなどをしていた。母親に代替わりした後の2002年、それまでの仕事の信頼から有名ブランド服の完成品の仕上げ作業も依頼されるようになり、次いで、取引先から「ネクタイの縫製に挑戦してみないか」と声をかけられた。笏本縫製の“丸み”の縫製技術を高く評価されてのことだった。
しかし、それまで「縫う」仕事はしてきたが、ネクタイを仕上げるのに必要な「裁断」はしたことがなかった。母親は、百貨店から高級なネクタイを買って帰り、それを分解して研究を続けた。
はじめは、ネクタイを作るのに必要な機械がなかったため、すべて手作業で作り上げたという。設備を整えるのに約1年の時間を要し、完成品といえる商品を納品できるようになり、ネクタイ専門の縫製工場へと舵を切ったそうだ。
■すごい仕事をしているのに苦しいのが悔しい
母親が入院している間、笏本さんは美容室の仕事を終え、帰宅後に工場に向かった。
ミシンは職人の仕事なので、重い荷物を運んだり値札をつけたりと簡単な仕事を手伝った。
その日々の中で、子どもの頃の記憶が蘇ってきた。段ボール箱でのお昼寝。子守唄のように聞いたミシンの音。真剣な眼差しで働く、祖母や母親、職人の姿。
「なぜ、こんなにすごい仕事をしているのに、母親は働き詰めで苦しんでいるんだろう? 心から幸せそうに見えないのは、なぜだろう?」
幼い頃、ずっと心に抱いていた疑問にふたたび火がついた。
「なぜ、うちの家族はたくさん働いているのに、休みもなく旅行にも行けず、裕福でないのか。ずっと損している。頑張っているなら、幸せになって当然じゃないのか?」
――悔しい。
「このまま僕が家業を継がなかったら、このミシンの音が、消えてしまう。祖母の代から積み上げてきた伝統も、職人さんの技術も、途絶えてしまう。自分をここまで育ててもらった家業に、目を背けてよかったのだろうか?」
当時をふりかえり、笏本さんは語る。
「すべては、反骨心です。だからこそ、今でも腹の底からふつふつと熱量が湧き続けているんだと思います。こんなにすごい仕事をしているんだから、もっと世の中の人に知ってほしい。本当は、『世界を変えたい』とか、『困っている人を救いたい』と、カッコよく言えればいいのかもしれませんが、私は目の前のことしか見ていません」
■「お願いだから継がないで」
「私の代でこの会社は潰すから。あんたに多額の借金を背負わせるわけにはいかない。私の代でなんとかきれいに清算するから、お願いだから継がないで」
母親に会社を継ぎたいと伝えた時に、返ってきた言葉だ。
その頃、縫製の下請仕事は物価の安い海外へと流出が相次いでいた。借金の返済と職人さんへの給与の支払い、追われる納期。日々を繋いでいくのに必死だった。
母親とは半分ケンカの話し合いが繰り広げられた。
「できるもんならやってみぃ! あぁ、そう言えばあんた。美容師の国家資格を持っとるな。もし、なにかあっても食いっぱぐれることはないか……」
継ぎたいと伝えてから1年ほど経過し、最終的に、親心とともに母親が折れた。
■美容師を辞め、初めてミシンを触る
2008年、美容師を辞め入社。営業として取引先と商品の話をするために、最初の5年間は、職人から技術を教わった。初めて触るミシン、針、機械の修理。
休憩時間になるとたわいもない話をしてわきあいあいとしている職人たちは、仕事になると目つきが変わった。一切の妥協を許さず、有名ブランドのネクタイを縫いあげる。職人のモノづくりへの情熱を知る。
笏本さんは、技術を学ぶ一方で、どうすれば「職人の仕事のすごさ」を伝えられるか日夜考え続けた。
美容室で働いていたときは、お客さんから直接「ありがとう」と言ってもらえた。下請の仕事は、お客さんに喜んでもらおうと丁寧に作り込んでも、「ありがとう」の声が聞こえてこない。お叱りの言葉もない。ただただ、作る毎日。
お客さんと繋がる「なにか」が必要だ。
「職人の仕事のすごさ」を伝える「なにか」。
それが、自社ブランドだった。
ただ、どう動きだせばいいのか、本当に自社ブランドを作っていいのか、モヤモヤと悩んでいた。
■工場を見て「なんじゃこりゃ!」
2014年、岡山県津山市では、地場産業の発展を支援する団体「つやま産業支援センター」を立ち上げようと準備をしていた。津山市内のさまざまな産業を見学して、新しいチャレンジができそうな会社を探していた団体職員が、笏本縫製を訪れた。それまで、無名の縫製工場を見学に来る人はおらず、「お見せしても、なにも面白いことなんてないですけどねー」と言いながら、工場内を案内した。
すると団体職員が、「なんじゃこりゃ!」と目の前で感激していた。
「もっと、機械でガシャコン、ガシャコン、と作られているのかと想像していたのですが、めちゃくちゃ手縫いなんですね! こんなにすごい仕事をしているのに、自社ブランドは作らないのですか?」
その瞬間に、溜め込んでいた想いが一気に溢れた。
■借金は5000万円、「潰れるよりはいい」
当時の縫製業界では、下請工場が自社ブランドを立ち上げることは異例だった。「これまで築いてきた取引先との関係を、失うかもしれない」と心配する母親。
入社以来、業績が落ちる一方で下請け仕事に限界を感じていた笏本さんは、母親と話し合った。
「僕らが一番やってはいけないのは、潰れること。職人さんの技術も、生活も失う。下請仕事だけでは、いずれ会社は倒産する。挑戦することで失うものがあったとしても、潰れるよりはいい」
当時の笏本縫製には、借金が約5000万円あったという。
■取引先から「干すぞ」
自社ブランドを立ち上げると決めた笏本さんは動きだした。
「これまで笏本縫製が築いてきたノウハウと想いを詰め込みたい。日本製の品質のいいモノを作ろう」
百貨店の売り場や知人を訪ね歩き、意見を参考にした。半年ほど経ち、笏本さんの頭の中にあるイメージが形になった。目の前で自社ブランドの商品が出来上がっていく喜び。
その一方で、次から次に請求書が届いた。品質には妥協したくないから、生地屋を訪問するときの出張では格安のホテルを選んだ。自分にかかるコストはできるだけ下げたいと、食事を抜くこともあったという。最終的に、初期投資は約200万円かかった。
自社ブランドを始めると、一部の取引先からは面と向かって「干すぞ」と言われた。
仕事量を明らかに減らされ、「自社ブランドがあるんだから。うちの下請けのような仕事は、もういらないでしょ」と、言われることもあった。
■1年目は30本しか売れなかった
2015年9月、自社ブランド「SHAKUNONE(シャクノネ)」が誕生した。生地は、世界的に有名な京都西陣織の丹後絹。縫製技術は、有名ブランドも手がける約50年の伝統。最高品質を詰め込んだ夢の自社ブランドは、地元の百貨店「アルネ津山」で販売を開始した。
「いいモノを作りさえすれば、誰かが見つけてくれるはず」
だが、1年目は約30本。2年目は約100本しか売れなかった。地方の無名ブランド。最初からうまくいくとは思っていなかったが、想像を超える悲惨な状況で、初期投資の回収も見込めなかった。
それならば、「お客様に直接、話を聞こう」
笏本さんは、店頭に立ち、ネクタイを選んでいる人に話しかけた。接客を繰り返していくと、ある疑問が湧いてきた。
「うちのネクタイを手に取ったのに、悩んだ末に購入に至らなかったお客さん。そこに買ってもらえない理由があるのでは? それを知ることが、ブランドを成長させる近道だ」
そう考えた笏本さんは、ネクタイを一度手にしたのに購入しなかった人たちを引き止め、話を聞いた。
「大変、失礼は承知でお聞きするのですが……。先ほど、当社のネクタイをお手に取っていただきました。もしよろしければ、選ばれなかった理由をお伺いできればと思いまして」
■手に取ったのになぜ買わなかったのか
ほとんどの人が、率直な意見を述べてくれた。
「プレゼントにしたいけれど、デザインが派手すぎる。もっとシンプルにしてほしい」

「品質は良さそうだけれど、有名ブランドの物を買いたい」

「ブランドのパッケージがないと、プレゼントにしにくい」
派手で目を引く商品を作り、他社との差別化をすれば売れると思っていた。しかし、お客さんは派手なネクタイがほしいわけではなかった。そして、ブランドとして名前が知られていないと売れない。
■「これが最後」挑んだクラウドファンディング
百貨店での店頭販売を続けながら、売り上げ拡大のヒントを探った。異業種の人たちに会い、セミナーに参加し、本を読んだ。
しかし、なかなか結果が出ない。「自分には才能がない。田舎からは、どうせ無理だ」と、諦めかけていた。自社ブランドを始めて2年、傷が深くなる前に辞めてしまおうかと考えていたタイミングで、とある経営者からもらった言葉が自分を変えた。
「1勝99敗だよ。1回勝とうと思ったら99回負けないと。成功体験を語っている人は、それ以上に負けている」
その言葉に背中を押され、当時はまだ周囲で挑戦する人が少なかったクラウドファンディングに、「これが最後だ」と挑戦することにした。
新商品の開発と認知拡大を目指し、1カ月で100万円の目標を立てた。
「日本製がどんどん少なくなっている」

「日本の職人を絶やしたくない」

「いいものを作っているからこそ、知ってほしい」
Facebookでストレートな想いを、毎日、毎日発信した。
10月4日から募集を開始し、17日で目標の100万円を達成。残りの期間も支援が止まることはなく、結果的に1カ月で172万円の支援金が集まった。その金額は、2年間で販売した自社ブランドの売り上げを超えた。さらに、このプロジェクトは、当時の「ネクタイに関する部門」で資金調達額1位になった。
「自分たちを応援してくださる方がこんなにもいる。諦めかけていた自分が恥ずかしくなりました。知ってもらう努力を怠っていたと痛感しました」
クラウドファンディングで集まった資金で、それまで集めたお客さんの声をもとにした新商品を開発。自社オリジナルのロゴを散りばめた上品でシンプルなデザインに仕上げ、パッケージも宝石箱のような箱を準備した。
この時に開発した自社オリジナルのロゴネクタイが、現在も一番人気の商品になっているという。
■「いつか総理大臣に結んでほしい」が実現
クラウドファンディングを目にした大手百貨店「阪急メンズ大阪」から、商談のオファーが入り、2018年3月大阪で初めてのポップアップイベントを開催した。それを機に、東京、大阪、名古屋などの有名百貨店でのポップアップの話が舞い込み、笏本さんは全国を飛び回ることになった。
2022年には、ファンだという人から連絡が入った。なんと、当時の首相・岸田総理大臣に、「御社のネクタイをプレゼントした」という内容だった。実際に着用している写真が「首相官邸」のサイトにもアップされた。続いて、アメリカのバイデン大統領には政府関係者から、フィリピンのマルコス大統領にはプライベートで親交のある関係者から贈られたという連絡が入る。いずれも「日本製のネクタイのファン」から贈られたのだという。
「実は、自社ブランドを立ち上げたときに、母親と『いつか総理大臣に結んでもらえるようなブランドにしたいね』と話していたんです。縫製技術は間違いないものだから、知ってもらう努力を毎日コツコツと積み上げようとやってきました。小さな町工場ですが、想いと継続で夢が叶うんだな、と思いました」
■他社や海外産と比べるつもりはない
2021年、笏本さんは代表取締役に就任。同時に、経営理念を掲げた。
「お客様に喜びを。作り手にめいっぱいの幸せを」
最高品質の商品を届けることで、お客さんに喜んでほしい。職人が笑って働ける環境をあたりまえにしたい。そんな願いが込められているという。
「縫製の仕事は海外への流出が続いていますが、私は着用する方が満足しているのならいいと思っています。当社の商品を、他社や海外産と比べるつもりもありません。当社は、自分たちが最高品質だと思う商品を提供し続け、喜んでくださったお客様にファンになっていただけることを目指していくだけです」
■工場に届いたボロボロのネクタイ
2022年、60代男性から一本の電話が入り、「ネクタイを直してほしいんです」といわれた。「とりあえず送ってみてください」と伝え、届いたネクタイはボロボロだった。うすい汚れに、毛羽立ち、軽度の日焼けのような跡。しかも、他社の製品だ。「新しく買い直してください」と伝えようかと思ったが、その男性からの強い想いを感じた。
職人と相談しながら、手を加えた。ボロボロではあったものの、丁寧に扱われてきたネクタイであることが伝わってきた。毛羽立ちを丁寧に修正し、傷が入ってしまっている部分を裏側に回して、表面はなんとか綺麗に見えるようにした。送り返したのは、クリスマスの直前だった。再び電話が鳴る。
「ネクタイが届きました。実は、昨年、妻を亡くしました。このネクタイは、子育ても忙しく、経済的にも心にも余裕もなく、いっぱいいっぱいだった時期に、妻が奮発してプレゼントしてくれたものだったんです。クリスマスに、『いつもありがとう』と。ボロボロになってしまったけれど、なんとか、もう一度このネクタイを結びたいと思い修理してくれる工場をずっと探していたんです。妻から、もう一度クリスマスプレゼントを貰えたようで、とても嬉しかったです」
笏本さんは、モノづくりを通して、それぞれのお客さんに“物語”があることを再認識したという。
■売り上げは3倍、残業はしない
下請の仕事が100%だった縫製工場が、現在では売り上げの70%を自社ブランドの仕事が占めるという。会社の売り上げは約3倍に拡大した。残業は、一切しない。12名の社員全員が17時に退社している。
ずっと休みなく働いてきた母親は、若かりし頃に熱中していた剣道を再開した。友人と「推し活」も楽しんでいるという。
「母親は、『世界が変わった』と言っています。私には、世界全体を変える力はありません。それでも、目と手と声の届く範囲の人たちは、目いっぱい幸せにしたい。それが周囲にも伝播することで、いい環境がつくれるのだろうと思っています」
丹精込めて作ったモノを通して、職人やお客様の笑い声、ミシンの音が、雅楽などで使われる打楽器の「笏拍子(しゃくびょうし)」の音のように心に響きわたるブランドにしたい、と名付けた「SHAKUNONE(シャクノネ)」は、2025年9月に10周年を迎える。

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メリイ 潤(めりい・じゅん)

フリーライター

岡山県在住。大学卒業後、約16年間大手損害保険会社で営業および営業事務に携わった後、2024年よりフリーライターとして活動。ビジネス系インタビュー記事、イベントレポート、マネーコラム等を執筆。中学時代はソフトテニス部、大学時代はラクロス部に所属。3児の母。2級FP技能士。

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(フリーライター メリイ 潤)
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