浅田孝という人は、戦後日本の建築界における“裏番長”みたいな人で、“表番長”たる丹下健三の片腕として広島の平和記念公園や東京の旧都庁舎といったビッグプロジェクトを推し進め、各方面の調整にあたった。その後も昭和基地をはじめ、横浜のこどもの国や6大事業(みなとみらい21地区の開発、ベイブリッジ、港北ニュータウンの建設など)、香川県の五色台開発や坂出人工土地、大阪万博や沖縄海洋博、本四連絡橋、美濃部亮吉都知事時代の「広場と青空の東京構想」などの各計画、変わったところでは名神高速道路の案内標識のデザインにまで携わっている。
六本木ヒルズ森タワー内にある森美術館で現在開催中の「メタボリズムの未来都市展――戦後日本・今甦る復興の夢とビジョン」(会期は来年1月15日まで)では、昭和基地もとりあげられ、竹中工務店と日本建築学会が制作した当時の記録映画が上映されている。展覧会のテーマに掲げられたメタボリズムというのは、1960年に東京で開かれた世界デザイン会議に際し、前出の浅田(同会議では事務局長を務めた)のほか当時新進気鋭の建築家だった大高正人、菊竹清訓、槇文彦、黒川紀章、それから建築評論家の川添登、グラフィックデザイナーの粟津潔、インダストリアルデザイナーの栄久庵憲司といった面々によって提唱された概念だ。もっとも、本来メタボリズムは新陳代謝を意味する生物学用語なのだが、彼らはこれを建築や都市計画に当てはめ、生物が代謝を繰り返しながら成長していくように、建築や都市も有機的に変化するようデザインされるべきだと考えたのである。おりしも日本が戦後復興から高度経済成長へと突き進んでいたこの時代、大都市では人口がどんどん増え続け、過密状態をいかに解決するかが喫緊の課題となっていた。
「メタボリズムの未来都市展」では、メタボリズム・グループの軌跡にとどまらず、その前史にはじまり、グループの事実上の解散後、現在にいたるまでのメンバーの仕事をたどることができる。また上記にあげた建築家だけでなく、彼らに多大な影響を与えた丹下健三、メタボリズムの思想に共鳴した磯崎新や大谷幸夫などの作品も多数とりあげられている。それはまさに昭和以降の日本の建築史そのものだ。
メタボリズム関係の建築・都市計画には実現しなかったものも多い。それら幻の計画をCGで再現し、大スクリーンで上映するというのも今回の展覧会のみどころのひとつだ。映像化された計画のひとつに、丹下健三を中心に立案された「東京計画1960」(1961年発表)という、丸の内から東京湾を横断して千葉県木更津市へといたる海上都市の構想がある。現在の臨海副都心や東京湾アクアラインなどの原点ともいえそうなこの計画を、CG映像で観せられるとあらためてそのスケールの大きさを実感する。陸地から海上へ軸状に交通路が伸び、それを中心に都市の諸施設が配置されていくさまは、脊椎動物の神経系の成長過程をモデルにしたものだ。丹下なりのメタボリズム解釈というわけだが、メタボリズム・グループの若手建築家たちは当初、生物の成長をせいぜい細胞分裂のイメージでしかとらえられていなかった。これに対し丹下は「細胞が分裂しながら成長するというのはアメーバとか下等動物の発展形態であって、高等動物はやはり脊髄なんだよ」と力説したという(丹下健三・藤森照信『丹下健三』)。
メタボリズムのグループとしての活動は、菊竹清訓・槇文彦・黒川紀章による「ペルー低所得層集合住宅国際指名競技設計」(1969年)で終わるのだが、その思想はメンバーたち個人の活動によりさらなる発展をとげた。黒川紀章の「中銀カプセルタワー」(1971年)や、菊竹清訓が1975年の沖縄海洋博のために設計した「アクアポリス」、あるいは1969年から92年まで約20年のあいだに段階的に建設された槇文彦による東京・代官山の「ヒルサイドテラス」などはその代表作といえる(このうち中銀カプセルタワーで使われている実物カプセル1基が今回の展覧会に際し、森タワーのふもと、六本木六丁目の交差点付近に展示されている)。
しかしメタボリズムのクライマックスは何といっても、1970年に大阪で開催された日本万国博覧会だろう。展覧会場のなかでも万博関連の展示ゾーンはひときわ華やかだ。大阪万博では各作家がパビリオン建築を手がけ、おのおのの理想の具現化をめざした。丹下健三が基幹施設のマスターデザインおよび会場中枢に配されたお祭り広場の設計を手がけたのをはじめ、菊竹清訓はシンボルタワーである「エキスポタワー」を、黒川紀章は「タカラ・ビューティリオン」など複数のパビリオンを設計している。川添登も、グラフィックデザイナーの勝井三雄と組んで、お祭り広場の空中テーマ館(広場に架けられた大屋根の内部空間)に展示する5メートル×3メートル大の「世界一大きな絵本」を制作した。今回の展覧会ではそのミニチュア(要は普通サイズの絵本なんだけど)も展示されている。この絵本、万博開催時にはページが機械仕掛けでめくられるようになっていたのだが、あまりに大きいのでその躯体をつくるのに苦労したという。このとき、躯体づくりを東京・蒲田のとある町工場に依頼、工場の社長は二つ返事でこれを引き受け見事に完成させる。ちなみにこの工場の社長の名は中村雅哉といい、のちにゲームソフト会社ナムコを設立、「パックマン」などのゲームを世に送り出した(この話は、勝井三雄が『グラフィックデザイナーの肖像』という本のなかで語っている)。
それにしても、メタボリズム建築や都市計画は実現した・しないにかかわらず、その大半が壮大な構想をともなうがゆえ、どこかSFチックで非現実的という印象がつきまとう。彼らが手がけた都市計画は、ときの政府の策定する国土計画とも結びつき、日本列島を縦横無尽に新幹線や高速道路網が張りめぐらされるといった未来予想図が描かれたりもした。公共事業=税金の無駄遣いという意識が刷りこまれてしまった現代のわたしたちの目には、そうした将来像はどうしても絵空事に映る。
だが、メタボリズムを単なるレトロフューチャーだとか、実現しなかった未来像にすぎないなどと片づけては、こうして大規模な回顧展が開かれる理由が失われてしまう。壮大で派手な装いにとらわれていると見逃しがちだが、メタボリズム関連の各作品をよくよく見ていくと、いま建築が果たすべき役割を示唆するものも少なくない。たとえば、若き日の黒川紀章が1960年に発表した「農村都市計画」(実現せず)は、前年の伊勢湾台風で郷里・愛知県蟹江町が壊滅的な被害を受けたことから発想された一種の復興計画だ。あるいは冒頭にあげた昭和基地は、南極観測隊の越冬生活が「単なる生存ではなくて、余裕のある生活」であるよう、隊員たちの精神的な支えとなるものとして開発されたという。こうした考え方は、災害被災者たちのための仮設住宅の建設などでも踏襲されるべきものではないだろうか。メタボリズム・グループの建築家たちの描いた未来像は、その本質的な部分ではまだ十分に有効のようだ。(近藤正高)
※本記事執筆にあたっては、『メタボリズムの未来都市展――戦後日本・今甦る復興の夢とビジョン』カタログと八束はじめ『メタボリズム・ネクサス』も参照しました。