<誰が何を言ったっておかしくないじゃん>
我孫子 以前のレビューでも書いた、加害者家族と被害者家族が一緒にそうめんを食べるシーン(第6話「招かざる客」)なんですが、
坂元 はい。
我孫子 被害者側の母親(大竹しのぶ)が、ずっと会いたくなかった加害者家族と顔を会わせてしまうこの場面は、視聴者も「どう出会うんだろう?」とずっと気にしていた訳です。そこでお決まりの反応をするのではなく、息子役の瑛太に「なんでお茶菓子ないの?」と叱る。それがとてもリアルというか…… もちろんリアルなわけないんですけども、お約束では良しとしない姿勢のひとつだと思うんですよね。そういうのが全編に渡って起きていて。
坂元 やっぱり、被害者家族のことも加害者家族のことも自分には未知の世界で、何がリアルなのかはわからない訳です。そういう場合 、ベタに向かうことには危険を感じる。毎回毎回こう書いたら普通になってしまうね、とそこを避けながら書いていくとああいう感じになるというか。今挙げていただいたシーンも、被害者側の大竹さんがハッキリしゃべって加害者家族はそれに対して受け答えして、という感じで一回普通に書いてるんです。でも、なんか違和感があるんですよね。それで、違う方向で書いてみようかなと。でも、あんな風に外してしまうのはすごく勇気がいるんですよ。
我孫子 外すと言っても、結局キャラクターが坂元さんの中で固まってなかったら単にブレたことになりますよね。
坂元 とにかく一面的には書かないようにしているので、一緒にそうめん食べちゃう場合もいけるし、カーっと感情をぶつける場合もいけるし。どっちかにしかいけないっていうのは、そのキャラクターに欠陥があるんだと思います。それこそ、いわゆる“キャラクタードラマ”ですよね。よく「このキャラクターはこんなこと言わないだろう」って言うケースがありますが、僕は昔っからそれが不思議で仕方ないんですよ。「誰が何を言ったっておかしくないじゃん」って。もちろん、しゃべり口調とか気持ちの持っていき方はそれぞれ特徴があるだろうけど、人間の考え方なんていい方に考える場合もあれば悪い方に考える場合もあるし、冷静な人が怒りだすこともあるだろうし。生きてる人間であることをちゃんと踏まえて書いてあれば、役として言えない台詞なんてないと思うんですよね。
我孫子 人間の捉え方が相当しっかりしていないと、こういう多面的というか立体的な造形って出来ないと思うんですよ。そういう造形っていうのは、役者さんとのフィードバックがあって固まっていくんですか?
坂元 やっぱり、固めたくはないですよね、最後まで。よく企画書に「この人はムードメーカーである」とか「怒ると止まらない」とか書くんですけど、そうやって決めちゃうと面白くなくって。実際の人間ってもっと漠然としているものなんで。
我孫子 ある種、そういう記号化というか一面的に見せることが視聴者や読者にとっての利便性や見やすさにはつながりますよね。それを拒否するっていうのはやっぱり、「視聴率は気にしない」という坂元さんの覚悟がないと出来なかったことですか?
坂元 そうですね。記号化しないと視聴率はないです。あんな暗い主人公も普通のテレビドラマじゃあり得ないし。まあでも、昔トレンディドラマをやってた頃の方がもっとゆるかったですよね。トレンディドラマの時代は割とゆるいキャラクター設定で一人の作家が書いてたんですけど、今のように一話完結で複数のライターが書くっていう時代だと、「このキャラクターはこうで」って決まってないとなかなかドラマは書けないと思いますね。
<100%美化して可哀想な人にするのは避けたかった>
我孫子 「犯人の設定をどうするんだろう?」というのが最初一番気になったことで。更生してるだろうけど、周囲の視線のせいでまた元に戻ってしまう話にもなりそうだし、あるいは生まれながらの殺人者・サイコパスという風にもなりそうだし。でも、あくまでもリアルに見える、曖昧なんだけどすごく身近に感じられるという、あそこまでの造形が出来るのは坂元さんの視線なのかなぁと思ったんですが。
坂元 色んな映画を観たり本を読んだりしたんですけど、結局殺人犯の気持ちや内面を描いたものは一個も見つからなくって。人を殺す人間って、だいたいトラウマがあったり怨恨があったりっていうわかりやすい理由があるものか、あるいはサイコパス……どちらを選んでも現実の殺人犯の像を映し出してると思えない。「殺人犯の主観でドラマが作れるんだろうか?」っていう葛藤が1話から最後までずーっとあって、わからない存在を描いていいのかと。
我孫子 第2の事件がない可能性もあったんですか?
坂元 はい。このまま被害者加害者家族の葛藤で最後まで行けるじゃないかと。それでも僕はどうしてもやる!と半ば強引に。それがなければ殺人犯が反省するパターンにも持っていけたんでしょうが、僕はそれをやりたくなかった。「こんな悲しいことがあったからこういう犯罪を犯してしまったんです」と説明してしまうことって、犯人を100%美化して可哀想な人にしてしまうことだから、どうしても避けたかったんです。でも、じゃあこの犯人をどう描けばいいのかっていうのがわからないまま進んで。それで、6話か7話を書いている頃にようやく風間さんの芝居が観れたんですね。その演技がすごく考え抜かれていて。サイコでもないし、普通の人間でもないし、ちょっと説明しずらいんですが、なんとなく掴めた気がして。困った時は俳優を見ればいい。
我孫子 風間さんのあの“曖昧さ”は良かったですよね。
坂元 でも、なぜ彼は子どもを殺したのかっていう理由を説明しないと、テレビの視聴者は見終わってからモヤモヤする訳です。でも僕は説明したくないので、説明しない程度に視聴者が腑に落ちるものを、最終回じゃなくその前に誰も知らないところで書こうと。それで最終回前の10話で祖父母相手に少しだけ吐露するっていうのが、自分の中でギリギリの妥協点だったんですけど。でも、彼がなんで小さな子どもを殺したのか、僕も結局最後までわからないまま……今も課題として残ってる。
我孫子 今聞いていてビックリしてるんですけども、ある種の意志がないとあんな造形できなかっただろうし、演技もできないと思っていたんです。でも、脚本家がわかってないのに役者がアレを演じていたんだって思うと…… でも、最初に風間さんが出てきたときの彼の虚無感というか、不気味で更生してるとは思えないけどもしかしたらこっちの思い込みかも、という風に揺さぶられるものはありましたね。
坂元 風間さんが一番苦労したと思いますね。更正はしてないこととか、もう一回やりますよっていうことだけは伝わってましたけど、もう僕もプロデューサーもどうすればいいのかわからなくて。彼の根底にある闇の正体みたいのは誰もわかるはずがないし、どう片付ければいいのか見当もつかないままずっとやってましたね。
我孫子 何か事件があった時ってみんな読み取ろうとするじゃないですか。その読み取ろうとすること自体が僕には不思議で。
<連ドラの脚本家として終わりを見据えて書いています>
我孫子 今後、こういうドラマは他にも作られていきますか?
坂元 僕はやるつもりなので、仕事がある限りは。あ、でも「カーネーション」ってご覧になってますか?
我孫子 「カーネーション」はまだ観てないんですよ。すごく評判がいいですよね。
坂元 あれは素晴らしいドラマだと思います。僕はここ2週分をNHKオンデマンドで観ただけなんですけど。
我孫子 いわゆる“朝ドラらしさ”ってあるじゃないですか。それこそ説明的であるというような。
坂元 「カーネーション」はたぶん説明してないですね。ナレーションはありますけど、あくまでもお作法でやってる程度で、説明的なナレーションは出来るだけ省いて、演出もお芝居を見せていて。
我孫子 今後は二極化したりするんですかね? とにかくわかりやすいベタな話と……
坂元 テレビドラマに求められてるのって、やっぱり水戸黄門的なわかりやすさなんですよね。でも、全部が水戸黄門にならなくていいと言う人がいたり、視聴率は関係ないよって気概で来る人間がいたり、時には会社が「視聴率抜きでやれ!」って言うときもある。そういうのがたまに起こるので、遭遇すると事故的に面白いんじゃないかと。
我孫子 事故ですか…… 僕はケミストリーとか言うのかなぁと思ってたんですけど。
坂元 局の英断があって、バラエティ畑からはじめて来て上から「自由にやっていいよ」って言われてるプロデューサーがいて、瑛太・満島っていう自由な俳優さんがいて。それはケミストリーと言えばケミストリーなんですけど、点であって線ではないんだろうなと。まあ、僕もベテランになってきて、あと何年連ドラやらせてもらえるかわからないし、こんなドラマを作っていたらテレビの脚本家として失格です。
我孫子 依頼を上手くこなしつつ、時々自分のやりたいことをやる、というのは?
坂元 それをやろうとしていた時期もあったんですけど、そういう方法というのは若い人が取る方法だから。僕は人よりデビューが早い分、連ドラの脚本家として終わりを見据えて書いています。ベテランの書き手に9時台の明るい恋愛ドラマ書けって言う人もなかなかいないだろうし、これから仕事の依頼はどんどん減っていくでしょうね。
我孫子 依頼、減っちゃうんですか?
坂元 たまに仕事の話が来たときに原作本を持ってくる方もいらっしゃるんですけど、最近は本の帯に「遺族が…」とかそういうことばっかり書いてある(笑)。もうレッテルが付いてるので、後戻りも出来ないですね。
(了)
(聞き手:我孫子武丸 構成・文:オグマナオト)