東京から、南の果ての羽照那島にやってきた少年チハルが、島の無口な少年リンドウと、学校で飼っていたヤギを食べるために解体する前の会話のシーン。
チハル「でも名前で読んだりして、情とか移らない? かわいくなっちゃったり……」
リンドウ「かわいい」
チハル「うまいけどかわいい?」
リンドウ「うまくてかわいい」
チハル「そこ、共存する感情なんだ……」
リンドウ「これが、メーテル(ヤギ)の寿命だ」
この会話のやりとりにぼくはしびれましたね。この会話だけで3ページは使ってるんですよ。
ああ、これはマンガの力を最大に生かしたシーンだ。
「寿命」という言葉が単なる熟語ではなく、意味を持った言葉として描かれるんです。リンドウが無口だけど情熱家だという設定がうまく生かされながら、極度に選ばれた言葉を全編にわたって使われている。
それが、この『南国トムソーヤ』最大の魅力です。
この作品は、南の外れの島に、美ら海(ちゅらうみ)留学生という名目で転校してきた少年チハルの出会う事件を描いた物語。
作者は『大東京トイボックス』のうめです。
ここしばらく、田舎にスポットを当てたマンガ作品が次々と出ております。有名なのは『ばらかもん』『銀の匙 Silver Spoon』などでしょうか。
面白いのはいずれも、田舎讃歌ではないところです。
もちろん、田舎のいいところはきっちり取り上げています。人が優しくて、都会ではありえないような人間関係が築かれている。物々交換など原始的とも思えるつながりがとてもあたたかい。
それと同時に、人間ではどうしようもない自然の脅威、生命を食べて生きることに対する畏怖も描かれます。
悩みのレベルが根本的に違うんですよ。
明日何かのはずみで死ぬかもしれない。
都会ではありえないことが、普通に存在します。
些細な悩みなんてどうでもよくなりますね。とにかく手をつないでいないと生きていくことすらままならない。
『南国トムソーヤ』も、基本的には大自然の中に生きる人間像を描きます。
基本的には出てくる島の人はみんな良い人で、チハルは「ヤマトゥ」(大和の人)「ナイチャー」(内地の人)と呼ばれます。島の人は「シマンチュ」です。
別に差別しているわけじゃなくて、文字通りに使っているだけなんです。大部分の人はほとんど気にせず、チハルを「ヤマトゥ」と呼びながら受け入れてくれます。
でもこれねー。お客さん扱いってことでしょう? チハルにしてみたら居心地悪いですよ。
途中から出てくる気の強い少女ナミが、チハルを「マレビト(客人)」と呼ぶことでさらにその意識は増します。ナミが一番「外部か」「内側か」を気にしているからなんですが。
自分も昔、島に住んでいたことがあるので、読んでいて「だよなー」と膝を叩いたものです。
決して悪意じゃないんですよ。本当に島の人はあったかくて優しいことが多い。
けれども漠然とした内と外の感覚はどうしても存在する場合があります。
この優しさと、島の内外の感覚を非常に丁寧に描いています。あくまでもチハルの主観メインですが、かなり客観的に計算しないと、この絶妙なバランスは保てないはず。
島で生活する人々に対して最大限の敬意を払いながら、リアルをきちんと描いている。
さて、ここでタイトルの「トムソーヤ」です。
トムソーヤは、誰よりも遠くへ行きたいと願いました。
極めて純粋な好奇心です。信念というとちと重いかな。もっともっとシンプル。「○○してみたい」という思い。
しかし好奇心って、どうしても壁に当たるものじゃないですか。それは常識の壁だったり、このマンガだと伝記伝承の類だったりとか、「ナイチャー」と「シマンチュ」の壁だったりとか。
あるいは「そんなのはムリ」という思い込みの壁だったり。
ところが見てくださいよこの表紙の目。
いい目してるでしょう?
日に焼けた左の少年リンドウには、ありえないと言われている大型翼竜の化石を見つけて確かめたい、という思いが静かに、しかし強く眠っています。
学校の担任朝倉先生は、自分の民俗学説が正しいかどうかを立証するために島に来て、自力で研究を続けています。
そういう人々を見て、チハルも動くんです。
好奇心の壁を超えたい。誰よりも遠くへ行ってみたい。
マンガ全編に渡って、登場人物の目はとにかくみんな尖っている。攻撃的なんじゃない、目の前にある壁を切り裂く矛になろうとする眼光なんです。
しかも、諦めなければ絶対にぶちやぶれる、常識なんかに負けるものかという、意地でも貫くと言わんばかりの矛ですよ。
現時点ではまだ大冒険は起きていません。
ただ、きな臭そうな人間は数人出てきています。事件は何かしら起きるでしょう。
おそらくその大半は「大人の事情」での登場になると思います。けれどもチハルは、一喝するんです。
「わかるけど、わかりません」
いいセリフだ! この一言にいろんなモノが詰まってる!
チハルが何らかの目的を明確に持っているかどうかはまだ描かれていませんが、むしろ手段が目的です。
誰よりも彼は遠くに行きたい、そのためならなんだってする。
まずは無謀とも思えるリンドウに「一緒に探そう」と言います。
内と外に悩むナミには「神様に選ばれたのは俺たちだ」と言います。
眼鏡で内向的に見える少年のこのセリフ一つ一つが洗練されていて、目の前の曇った霧を貫き破ってくれます。
すっごい気持ちいいですよ。
情熱的ですが、やけくそじゃないんです。リンドウは寡黙ですし、チハルは知的。だからこそ出る、研ぎ澄まされた言葉の数々は、まるで沖縄の空のように澄み渡っています。
同時に、この作品安心して読めます。仮に今後重大な事件が起きたとしても、彼らは絶対に折れることない瞳で世界を見ているんですもの。絶対に曲がらないでしょ、貫くでしょ、と心を託せる。
個人的には、ナミの神様がTwitterのbotだったりする、現代っぽさがまた楽しいんだなあ。
神様絡みの話いっぱいでてきますが、解決するのかも楽しみ。
沖縄の島に敬意を払いながら、あくまでもそれは舞台。駆け抜ける人間の姿を描こうとしています。
だからこそ、セリフ一つ一つを味わってみてください。多分読み返すたびに、色々な見方ができるはずです。
最後に、ぼくがもう一つ好きな、先生のセリフを一つ。
「ネットは便利だしアタシももちろん使うけどさ、そこに載ってることってもう誰かが調べたことなんだよね。人の好奇心てさ、どんどん突き詰めていくと、いつか誰も調べたことのない世界に行き着くの。まぁ、その壁を超えるか超えないかは、個人の自由だけど」
作者うめも、マンガの力で何かの壁をぶち破ってくれるのかな。
いや、この子達のこの瞳だ、きっと超えてくれる。
ところで少女ナミが個人的にツボすぎるかわいさなんですが、この島に行ったら会えるんですかねえ?
(たまごまご)