第85回直木賞に青島幸男の『人間万事塞翁が丙午』が選ばれた。1981年7月16日のことだ。
ちょうど翌日に誕生日を迎え49歳となった青島は、このとき参議院議員として3期目に入っていた。政治家だけでなく、放送作家・作詞家・タレントとしてすでに一世を風靡していた青島だが、本格的な小説はこれが第1作だった。

先ごろ刊行された青島の評伝『昭和に火をつけた男 青島幸男とその時代』(森炎・青島美幸著)によれば、若い頃より文学への志を胸に秘めていた青島が50歳を前に小説を書こうと思い立ったのは、多少時間ができたこともその理由の一つにあったという。何しろ、利権に関する陳情を受けることはなかったし、無所属のため党務というものもないので、国会会期中を除けば時間は比較的あった。テレビの仕事も、1975年をすぎた頃からぱったりオファーが来なくなっていた。これについて本書では《定かなことはわからないが、自民党筋からテレビのスポンサー企業に圧力がかけられたようである》と書かれている。


小説を書く動機としては、井上ひさしや野坂昭如といった青島と同時期に放送作家としてスタートした仲間たちが、すでに直木賞を受賞し、おのおの地位を築いていたことも大きい。青島が最初に相談したのは井上ひさしで、その切り出し方も「直木賞にくわしい文芸誌の編集者を紹介してほしい」と、最初から直木賞狙いだった。直木賞作家の大半が、受賞時点でそれなりの実績を持つ中堅作家であることを思えば、たった一度のノミネートで、それも受賞するとあらかじめ公言しての受賞はきわめて異例のことといえる。

1960年代、放送作家としてクレージーキャッツのコントの台本を書き、「およびでない」「ハイそれまでよ」などあまたのギャグを送り出し、また作詞家としては、「スーダラ節」をはじめ一連のクレージーキャッツの楽曲のほか、坂本九の「明日があるさ」などのヒットを飛ばした。

クレージーキャッツとコントを演じるうちにタレントとしても頭角を現し、その決まり文句「青島だァ!」は流行語となった。前出の評伝では、この文句が最初に登場したのが尾崎紅葉の小説『金色夜叉』をパロディにしたコントであったという事実を踏まえて、そこに青島がこめた思いを推し測っている。


参院選で初当選したのは1968年。まさに青島がテレビの世界で人気絶頂にあったときだ。この出馬については、はなから落選するつもりで、カネをかけなければ選挙など勝てないと逆説的に示すためだった、との説がある(小林信彦の『日本の喜劇人』にはそう書かれている)。だが、本書を読むとどうも、他人が想像する以上に青島は出馬に本気であったらしい。高度成長により国民の生活が豊かになるなかで、民主主義がなおざりにされてしまうのではないか、と青島は危機感を持っていたというのだ。

それでも選挙の戦い方はあくまで青島流だった。
本書のカバーをとると表紙には、外国製と思しき小型車を選挙カーに仕立てて、その屋根の上に乗って演説を行なう青島の写真が使われているのが、カッコいい(ちなみに「カッコいい」という言葉は、クレージーキャッツのために青島がつくったものだとか)。2選目を果たした1974年の参院選では、選挙には一切カネをかけないと決め、選挙期間中は海外ですごしたりしている。

これと前後して、赤塚不二夫のマンガ『天才バカボン』では、「国会で青島幸男が決めたのだ」というフレーズがことあるごとに登場した。青島にそこまで決定権があるのかよ! というのがこのフレーズの笑いどころだが、実際には、政見放送や、暑中見舞い用はがき「かもめ~る」など青島が国会で提案して実現したものは意外に多かったりする。

それにしても、選挙に出れば当選、小説を書けば直木賞と、青島の人生はいかにも挫折知らずに思える。しかし挑戦したことすべてが成功だったわけではけっしてない。


たとえば、1965年頃、これからは若者のあいだでゲーム機が娯楽の主流になると考えた青島は、カジノ型のスロットマシーンの開発に乗り出す。着眼点はよかったのかもしれないが、これは大失敗で、1億円を超える借金を負うことになる。いくら売れっ子だったとはいえ、とても個人で払いきれるような額ではない。妻と小さな子供2人を抱えて路頭に迷いかねないピンチで、青島は夜も眠れないどころか血尿が続いたという。

もっともこのピンチですら、自主製作映画「鐘」の成功(フランス・カンヌ映画祭の批評家週間招待作品に選ばれた)により乗り切ってしまうところに、稀代の才能というか運のよさを感じてしまうわけだが。青島はあるとき、長男・利幸に向かって「ブラフ(はったり)をし続けると勝つよ、そこに賭け続けていると勝つよ」と言い放ったという。
これこそまさに彼の生き方そのものではなかったか。

ただ、政治の世界に出てからの青島には、“良きにつけ悪しきにつけ”、テレビで見せていたような自由奔放さは見られない、とも本書の著者の一人・森炎は指摘する。

森はまた、《国会での青島幸男の活動は、終始一人だけで突き進んだものと言える》《市川房枝という市民活動の先達がいて、二院クラブ[無所属議員らによって結成された参議院内の一会派――引用者注]の仲間数名もいたが、本質的には、青島の政治的行動は、いつもただ一人での行動だった》と書いている。本書ではそのことがいささかヒロイックに書かれているが、実際のところはどうだったのか。かつて青島の政治活動にも協力した編集者・矢崎泰久の著書『変節の人』などをあわせて読むと、結果的に一人になってしまったのには青島自身の責任もあるように思われるのだが。

本書には、青島の実兄や妻、子供たちから証言がとられ、興味深い記述も多い。
当然ながら1995年から99年にかけての東京都知事在任中の仕事についても触れられている。そこでは、青島が都知事選での公約どおり臨海副都心での世界都市博覧会の開催を中止にしたものの、臨海副都心構想じたいは、彼なりにモチーフを変えて継承されたことなど、初めて知ったことも少なくない。

ただ、評伝としてはやや物足りなさも感じる。それは、家族以外の証言が少ないからではないか。「最初で最上の公認評伝」と帯で謳うのなら、彼が袂を分かった仲間たちも含め、近しい人々からどんな評価を受けていたのかについても言及してほしかった。都知事在任中の記述も、「都市博中止の公約は果たしたものの、あとはほとんど周囲の役人の言いなりだった」との私のなかでの評価を覆すまでにはいたらなかったというのが、正直なところだ。

さらにいうなら、事実誤認がちらほら見受けられるのも気になった。たとえば、1967年10月31日に吉田茂の国葬が行なわれた際、テレビ各局が中継するなか、青島主演のテレビドラマ「意地悪ばあさん」だけは予定どおり放映されたとの記述が出てくるが(83ページ)、当日の新聞のテレビ欄を確認したところ、葬儀の模様はNHK教育をのぞく全局が中継している。「意地悪ばあさん」は同日夜10時からの放送だが、このときにはすでにほとんどの局が通常の放送に戻っていた。

ともあれ、本書を読んであらためて青島の偉大さがわかったし、自分が思った以上に青島のことを(とくに放送作家時代の仕事が)好きだったことに気づかされた。それだけに、娘の美幸が明かした彼の最晩年のエピソードにはグッとくるものがある。

ビールがとにかく好きだった青島は、入院中にもしきりにビールを買ってきてくれとせがんだという。もちろん医者からは止められている。それでもあまりにもしつこく頼むので娘はかわいそうになり、翌日、小さめの缶ビールを買ってきてこっそり飲ませたのだった。それが青島の死の3日前のこと。その後もとくに異変はなく、亡くなる9時間前にも家族と談笑するほど元気だった。その別れ際、またビールをねだる青島に、娘が「明日持ってくるね」と言うと、「あしたかァ、明日じゃまにあわないんだよなァ」と残念そうにつぶやいたという。「明日があるさ」という歌をつくった人が、最後の最後で「明日じゃまにあわない」と言い残したということに、感慨を抱かざるをえない。
(近藤正高)