唱歌「故郷」の一節だが、現在三十代の筆者には、子どもの頃に山でうさぎを追った記憶も、川で小ぶなを釣った思い出もない。しかし、この歌に触れると自然にあふれた田舎の風景が浮かび、なんとも懐かしい気分に浸り、泣けてきてしまう。
「自然にあふれた田舎の風景」とは、「日本の原風景」と呼べるものかもしれない。美しい山や川。虫が飛び、鳥が舞う。澄んだ空気。緑の匂い。そんな豊かな環境の中にたたずむのは、今は「古民家」と呼ばれる、古き良き日本の風情に満ちた一軒家だ。
「古民家」と呼ばれる一軒家には、特に定義となるものはないという。ただ、戦前~大正以前に建造されたものだったり、釘などを用いない日本建築の伝統的な工法で建てられた家を指して「古民家」とする場合が多い。
古い建物であるがゆえに、古民家の数は年を追うごとに減ってきているだろう。反面、その耐久性や工法の合理性が見直され、古民家を再生する取り組みも多くなっているという。昔ながらの日本の暮らしにあこがれ、古民家を住居にする人も増えているようだ。
筆者が住む神奈川県鎌倉市でも、古民家を良く見かける。
時代の先端を行くIT企業と、古民家。相反する存在のように思うのだが……。いったいなぜ、古民家を職場にしたのだろうか。その目的とは……?
「目的は、特になかったんです(笑)」と、“古民家オフィス”での取材に応じてくれたのは、村式株式会社の代表取締役・住吉優さんだ。「この古民家を紹介してもらったとき、直感的に“これはイイ!”と思ったんです。使い方は、後から考えようと思いました」
“鎌倉のウェブ屋”こと村式株式会社は、ECサイトや地域のクラウドファンディングなど、さまざまなWEBサービスの開発・運営を手掛ける、いわゆるITベンチャー企業だ。住吉さんの直感で借りた古民家は、まずはWEBサービスを開発する際の合宿場所として利用されることになった。
「とにかく、やばいくらい集中できたんです」と住吉さん。手仕事・手作りの雑貨やアクセサリー、洋服などを購入できるサイトとして人気を集めている「iichi」も、スタッフがこの古民家に三カ月間ほどこもって開発されたという。
「やばいくらい集中できる」。ほんの数十分滞在したにすぎない筆者も、それは実感できた。
なんだか、僕のしょーもないプライベートな部分なども含めて、なんでも話したくなりますね。「そうなんです。ここに居ると、腹を割って話したくなるんです」と住吉さんは、ともすると外部の人間には話したくないかもしれないことまで、筆者に話してくれた。
「お恥ずかしい話なのですが、一時期、社内がバラバラだったことがあったんです。新サービスを次々にリリースしている頃で、社員それぞれが忙しくて、おたがいに会話を交わす機会すらありませんでした」と住吉さん。そんな中、社員の一人が、古民家オフィスに社員全員で集まることを提案してきた。
「この古民家で、社員全員で車座になって話し合ったんです。会社の将来のこと。
当然だが、この古民家で商談なども行われる。「ざっくばらんに、かつ腹を割った会話ができるので、その場で意気投合して商談成立、という例も枚挙に暇がありません。クライアントやパートナー企業と仲良くなるには、古民家は絶好の場ですね」と住吉さんは話す。
鎌倉には、村式などのIT企業を中心とした「カマコンバレー」と呼ばれるグループがある(参考「IT企業が鎌倉に集まる“カマコンバレー”化とは」)。そのメンバーが集まり、「新しい働き方」「共生」というカマコンバレーの理念が生まれたのも、村式の古民家オフィスだった。
カマコンバレーの理念は、「iikuni」という鎌倉限定クラウドファンディングに落とし込まれることになる。「競合他社であっても、価値観が違う者同士でも、共に力を合わせて成果を生み出すことができる。
「先日、この絵をいただいたんです」と住吉さん。見ると、どうやらこの古民家と、周辺の鎌倉の街並みを描いたもののようだ。へえ、温もりや愛情が感じられる、すてきな絵である。鎌倉の画家さんにでも描いてもらったのかと思ったのだが、「作者は不明なんです」という。
「絵といっしょに置いていってくださったお手紙から、地域に住むおばあさんが描かれたものということはわかりました。ただ、お名前まではわからなくて」
IT企業と聞くと、時代の先端を行く、ちょっとトガった人たちを思い浮かべる向きもあるだろう。そういう人たちに眉をひそめる向きもあるかもしれない。しかし、鎌倉に根差し、鎌倉を良くしようと動く村式やカマコンバレーは、どうやら鎌倉の人たちに認められ、愛されているようだ。
唱歌「故郷」では、“うさぎ追いし、かの山 小ぶな釣りし、かの川”の後に、こう続く。“夢は今も巡りて 忘れ難き故郷”。
村式の古民家オフィスには、住吉さんや社員の方々が思い描くいくつもの夢が巡る。そしてその夢は、街に、日本に、世界に向けて、WEBサービスやWEBを通じたコミュニティづくりという形で、次々に実現されている。
取材を終え、古民家を去るとき、筆者はなんだか故郷を去るときのような心持ちになった。ああ、もっと居たかったなあ。住吉さんと、もっともっとお話したかったなあ。故郷の家族や幼なじみたちは、みんな元気でやってるかなあ。
(木村吉貴/studio woofoo)