劇作家の宮沢章夫が講師を務める、NHK教育の番組「ニッポン戦後サブカルチャー史」。今夜(9月5日)放送の第6回では、「What's YMO~テクノとファッションの時代~ 80年代(1)」と題してYMO(イエロー・マジック・オーケストラ)についてとりあげるという。
YMOとは1978年に細野晴臣・坂本龍一・高橋幸宏によって結成され、1980年前後に世界を席巻したテクノバンドだ。

YMOについては、宮沢がすでに著書『東京大学「80年代地下文化論」講義』でくわしく書いているし、ほかにも田中雄二『電子音楽 in JAPAN』や円堂都司昭『YMOコンプレックス』といった好著がいくつか思い浮かぶ。

だから、私がいまさらYMOについて新たに書くこともないと思うのだが、それでも中学から高校にかけてハマり、その周辺の文化にも興味を抱くきっかけをつくってくれたバンドだけに思い入れは強い。そんなわけで思いつくままに書いてみることにする。たとえば、こんな、あるアーティストとYMOの比較論はどうだろう。

■YMOと意外な共通点を持っていた国民的アイドル
YMOの同時代のライバルというと、どんなアーティストをあげるべきだろうか。
「テクノ御三家」と呼ばれた、プラスチックス、P-MODEL、ヒカシューか? あるいは、英語の歌詞とか子供人気とか、ゴダイゴとも意外と共通点がある。それからシーナ&ロケッツとかRCサクセション(というか忌野清志郎)とは、メンバー同士交流があった。あと、YMOのワールドツアーの参加メンバーであり、やがて坂本龍一と結婚したとはいえ、ソロアーティストとしての矢野顕子はYMOの最大にして最強のライバルという気もする。

しかし私はここであえて、ピンク・レディーをあげたい。そう、YMOより一足先にデビューし、国民的人気を集めた女性アイドルデュオである。YMOとピンク・レディーに接点がないわけではない。
YMOは結成まもなく出演した、紀伊國屋ホールでの「アルファ・フュージョン・フェスティバル」では、ピンク・レディーのヒット曲「ウォンテッド」をカバーした。また、YMOの2nd.アルバム「ソリッド・ステイト・サヴァイヴァー」(1979年)に収録された初期の代表曲「テクノポリス」は、「踊れる音楽で売れる曲を」という細野晴臣の意向で、坂本龍一がピンク・レディーのヒット曲を分析してつくったものだといわれる。

このエピソードからは、当時の日本の踊れる音楽の代表格がピンク・レディーだったことがうかがえるし、その意味では、少しあとにYMOが起こしたテクノポップブームの下地をピンク・レディーがつくったといってもいいかもしれない。それを裏づけるように、評論家の平岡正明は《デビュー時から「サウスポー」くらいまでの全盛期には、ピンク・レディというチームの音楽内容は、ニューミュージック系はおろか、テクノ・ポップにも先行していた》と書いている(『歌謡曲見えたっ』)。

YMOとピンク・レディーの直接的なかかわりは、彼女たちが解散直前の1981年にリリースしたシングル「ラスト・プリテンダー」で、高橋幸宏が楽曲を提供したことが唯一だと思われる。ただし、これは先にラジという歌手に高橋が提供した「偽りの瞳」という曲の詞とアレンジを変えたもので、完全なオリジナルではないのが惜しい。
ちなみに「ラスト・プリテンダー」の作詞者はコピーライターの糸井重里である。このほか同シングルでは、レコードジャケットの2人のポートレートを写真家の鋤田正義が撮影、アートディレクションを後期YMOのデザインも手がけた奥村靫正が手がけている。

■YMOとピンク・レディー最大の共通点「全米進出」
さて、YMOとピンク・レディーの最大の共通点は、全米進出ではないだろうか。といっても、それに対する当時の日本人の反応は対照的だった。前出のアルファ・フュージョン・フェスティバルでの聴衆の反応こそいまいちだったとはいえ、1979年には前年に出した1st.アルバム「イエロー・マジック・オーケストラ」の米国盤をリリース、ロサンゼルスでライブも行なって注目を集めた。2nd.アルバムのリリース後には、アメリカ各地のほかイギリスとフランスをまわるワールドツアーを行ない、そこでの高い人気は、そのまま日本国内でのブームへとつながっていく。
いわばYMOは「逆輸入」という形で日本の大衆に受け入れられたのだ。

ピンク・レディーはこれとは正反対だった。国内での人気が絶頂に達していた1978年に米ワーナー・ブラザーズと契約、翌79年にシングル「KISS IN THE DARK」により全米デビューを果たした。この曲は「ビルボード」誌のヒットチャートで最高で37位にまでランクインする。日本のアーティストで同チャート・トップ40入りを果たしたのは、1963年の「上を向いて歩こう」の坂本九以来の快挙だった。さらに1980年には全米ネット局のNBCのミュージカル・コメディ番組「PINK LADY SHOW」という冠番組まで持つにいたる。


ここまでアメリカでセールス的に成功を収めながら、日本での反応は冷ややかなものだった。これには、カネで勝ち取ったものだという噂が信じられていたからだとの説がある。ミュージシャンの近田春夫も当時、《なんの根回しもナシに、日本のアーティストがあの順位に入るのは、アメリカのシステムから考えると不可能に近い》と指摘、でも曲は評価に値するのだから、カネでヒットチャートを買ってもちっとも悪くないと、ピンク・レディーに妙なエールを送っている(『定本 気分は歌謡曲』)。とはいえ、カネでヒットチャートが買えるものなら、その後のバブルの時代に日本人アーティストがもっと全米ヒットチャートにランクインしていてもおかしくないはずなのに、そうはならなかったのは、どういうことだろうか……。

ともあれ、全米デビューを境に日本でのピンク・レディーの人気は急速に凋落していく。1981年3月31日には後楽園球場で解散コンサートを行なったものの、ヒットソングはほとんど歌われず、その少し前のキャンディーズや山口百恵の解散とくらべると寂しいものであったという。


YMOとピンク・レディーの全米進出後の日本国内での反応の違いは、YMOが欧米でハクをつけてからだったのに対し、ピンク・レディーが日本でのブームのあとに全米に進出したからということに尽きるように思う。この順序は、当時の大方の日本人にとって大きかったはずだ。

鳴り物入りで海外に進出したものに対しては、どうせ失敗すると思い、たとえ成功しても何か裏があるに違いないと疑いを抱くが、最初に海外で評価されたものに対しては、ほぼ手放しで受け入れる。ようするに、1970年代後半から80年代にかけての日本人は、まだ欧米へのコンプレックスが拭いきれていなかったということだろう。1980年代初めには、日本人デザイナーによるDCブランドの隆盛という現象もあったが、その主役となったデザイナーの多くは国内よりも先に海外で評価されていたから、これも根っこは同じだと思われる。

バブルの時代に入っても、カネの力に飽かせて海外からビッグアーティストを呼んではコンサートが開かれたが、この時代に日本から海外に進出して大成功を収めたアーティストというのは少ない。衛星放送が始まったり、ときの政府が「国際国家」などと旗振りしたにもかかわらず、意外な気がする。

思えば、日本人の欧米コンプレックスが打ち破られたのは、ジャンルは違うが、1995年に野茂英雄が米メジャーリーグに進出したときではなかったか。あのときでさえ、野茂に対する国内の反応は冷ややかなものがあった。しかしそれに反して、野茂は見事に成功を収め、日本人選手でも実力があれば、メジャーで通用することを証明したのである。

それ以降、音楽の世界でも海外に進出するアーティストは増えたが、PUFFYにしてもピチカート・ファイヴにしても、かつてのYMOやピンク・レディーとくらべれば、肩肘張ったところがあまりない。日本人のコンプレックスが完全に消えたわけではないだろうが、プロスポーツやショービズの世界では少しずつ薄れつつあるような気がする。

なお、ピンク・レディーは1981年の解散ののち、90年代以降、何度となく再結成を繰り返している。YMOも解散ならぬ「散開」から10年後、1993年に一瞬活動を再開したのち、21世紀に入ってからはメンバー3人が顔をそろえる機会が増えた。まさかYMOとピンク・レディーがこんなところまで共通しようとは、前世紀には思いもしなかったよ。
(近藤正高)