美術家で作家の赤瀬川原平さんの姿はその生前、3度ほど目にしたことがある。ただし、いずれもトークイベントの一観客としてだが。
そのうち一つは、2000年2月に、美術評論家の山下裕二氏との共著『日本美術応援団』の刊行を記念して開かれたイベントで、私はこのとき、友人とつくっていたミニコミ誌を渡そうと意気込んで出かけた。赤瀬川さんに見てほしかったのは、ミニコミの中身というよりもその表紙だった。というのも、そこには、当時発行を間近にひかえていた二千円札を、新聞に載った写真から私が模写した絵を入れていたからだ。だが、赤瀬川さんはイベントのあとにも予定が入っていたため、イベントが終わってから観客と話をすることはできませんと開演前にあらかじめアナウンスがあり、ついにミニコミを渡すことはかなわなかった。

なぜ私は紙幣の模写を赤瀬川さんに見せようと思ったのか。すでにピンときた読者もいるだろうが、もちろん、彼が紙幣に関する作品を手がけ、それによって裁判まで経験していたからである。
まあ、自分の稚拙な絵を見せなくてよかったとホッとする一方で、赤瀬川さんが亡くなったいまとなっては、無理にでも渡して、一言でも言葉を交わしておけばよかったと残念な気持ちもある。

この10月26日に赤瀬川さんが亡くなってから、すでに私は2つのサイトで追悼の記事を書いてきた。だが、それでもなお語りつくせないところがある。そこでエキレビ!でも、個人的な思い入れを盛りこみつつ、3回に分けて書いてみたいと思う。第1回はずばり「お金」というテーマでその作品や活動を振り返ってみたい。なお、ここからは敬称略で進めさせていただく。


■苦情が殺到したテレビ生出演――「拡大千円札」と「模型千円札」
すでに書いたように、赤瀬川は紙幣に関する作品をいくつか手がけてきた。最初に発表したのは、千円札を模して印刷した、赤瀬川が「模型千円札」と呼んだもので、1963年2月に個展「あいまいな海のために」で展示された。

ただし、先に着手したのは、千円札をキャンバスに手描きで拡大模写した作品だった。彼は当時、上野の東京都美術館での無審査の展覧会「読売アンデパンダン」に毎回出展していたものの、オリジナルの作品はすでにやりつくしてしまった感があったという。そこで自虐的な志向もあって、無意味な馬鹿らしいものをものすごく細密にそのまま描いてみようと思い立つ。その対象として何が一番ふさわしいか考えた末、浮かんだのが紙幣であった。


それからというもの何カ月もかかって、ついには徹夜続きで胃けいれんを起こしながらも、千円紙幣の細かい柄をキャンバスの上に忠実に再現した。ただし1963年3月の読売アンデパンダンに出品したときには、まだ肖像部分が空いたままだった(なお同展覧会は結果的にこれが最後となった)。この作品に赤瀬川がつけたタイトルは「復讐の形態学(殺す前に相手をよく見る)」。そこにはお金への復讐という意味がこめられていたという。

《いわゆる貧困という立場もあるけど、もっとお金そのものというかね、世の中の力の代表みたいなもの、それを細密に見る、見殺しにするというか、逆の意味で(笑)。やっぱりあのころはどうしても観念的なんですね》(赤瀬川原平『全面自供!』

読売アンデパンダンには、前後して制作した「模型千円札」も出品された。
これは拡大模写を続けるうちに、紙幣の構造そのものを作品化するには、やはり印刷して複数の形態にする必要を感じたからだと、後年説明している。面白いことに、画家の先輩から教えられた印刷所をいくつか回ってみると、「千円札の印刷はできるけど、製版(印刷のもととなる版をつくること)はできない」というところと、「印刷はできない。製版だけならしてもいいけど」というところがあったという。結局、2つの印刷所でそれぞれ製版と印刷をしてもらい、できあがった作品はまず個展の案内状として、現金書留の封筒に入れて関係者に送付した。

模型千円札はいくつか騒ぎも引き起こした。たとえば、生放送のテレビ番組に出演中、これを灰皿のうえで燃やし続けたところ、テレビ局には抗議の電話が殺到したという。
当時のテレビ番組はたいていモノクロだったから、視聴者には一色刷りの模型千円札と本物との区別がつかなかったのだ。

しかしそれ以上に大きな騒ぎは、よく知られるように、模型千円札が警察に摘発され、裁判へと発展したことだろう。注意したいのは、このとき赤瀬川は、「偽造」ではなく、あくまで「模造」したことが罪に問われたという点である。つくったものをお金として使おうとすれば偽造ということになるが、彼にはその意図はなかったからだ。裁判は1966年から足かけ5年にわたって続いた。最終的に最高裁で有罪が確定したとはいえ、この裁判が赤瀬川を大きく変えたということは、先日べつのところでくわしく触れた(「cakes」連載「一故人 赤瀬川原平――裁判が彼を「明るい顔」にした」)。
このころ前衛美術の活動において、すっかりやることがなくなってしまい、ノイローゼにおちいっていた彼は、裁判を続けるうちに健康を回復したという話も残っている。

■日本円を無に帰す危険な作品――「大日本零円札」
昨年、東京駅前にオープンしたJPタワーには、東大の総合研究博物館と日本郵政が運営するミュージアム「インターメディアテク」が設けられている。その一角で、赤瀬川の「大日本零円札」という作品が、第一次世界大戦後のドイツで発行されたマルク紙幣と並べて展示されているのを見つけて、私は思わずニヤリとしてしまった。

第一次大戦後のドイツはハイパーインフレーションに見舞われ、貨幣価値は暴落した。展示されていた紙幣の額面は何億マルク、何兆マルクというもので、当時の経済状況を如実に示している。もちろん、これだけの額の紙幣でも、買えるものはたかが知れていただろう。

一方、「大日本零円札」は、「千円札裁判」でまず東京地裁での有罪判決を受けて東京高裁に控訴した1967年に制作したものだ。そのデザインはかつての五百円紙幣を思わせ、表面には、岩倉具視風の人物の顔をくり抜いた肖像と零円という額面、そして「本物」の文字が刷り込まれている。零円なのだから本物には間違いない。赤瀬川はこの手製の紙幣を、「模型千円札」の復活と逆襲をもくろんで、日本円と両替し始める。そこには、巷の百円札を順番に零円に交換していくことで、零円札発行所たる赤瀬川のもとに円紙幣が回収されるという深謀遠慮が隠されていた。ある意味、模型千円札以上に危険な思想がそこには潜んでいたといえる。事実、その呼びかけに応じて、彼の家には現金書留で百円札が続々と舞いこんだ。

この零円札、ずっとあとになって美術市場にも出回るようになった。10年以上前にアート見本市で、零円札がかなりの高額(たしか5万円を下らなかったのではないか)をつけて売られているのを見かけたときには、何だか妙な気分になったものだ。この時点でとうに零円札は、インフレ下のマルク紙幣以上の“貨幣価値”を有していたのである。

■犬から教えられた「約束手形」――『ふしぎなお金』
赤瀬川は作家としても、小説『贋金づかい』(尾辻克彦名義、1988年)などお金に関する本をいくつか書いている。2005年には「赤瀬川原平のこどもの哲学・大人の絵本」と題するシリーズの第1弾として『ふしぎなお金』という本も上梓した。

『ふしぎなお金』では、お金がさまざまなメタファーで語られている。なかでも面白いのは、飼い犬から「約束手形」という概念を教えてもらったという話だ。それによると、赤瀬川夫妻は犬の散歩の途中、スーパーへ買い物に立ち寄ったあと、外で待たせていた犬に魚肉ソーセージを与えるようにしていたという。だが、あるとき赤瀬川夫人がソーセージを持ってくるのを忘れてしまう。そこで犬には代わりにハンカチをくわえさせ、家に帰ってからソーセージを与えたという。いわば犬にとってはハンカチが「手形」で、それをソーセージに交換することが「現金化」にあたるというわけだ。

なお、この現金化にすっかり味をしめてから犬が見せた行動がまたおかしい。ぜひ、本で実際に読んでみてほしい。

■1円でどんなものが、どれだけ買えるか?――美学校で生徒に与えた課題
さて、最後にとりあげたいのは作品というか、赤瀬川が「美学校」という学校で教えていたころに、生徒に与えた課題である。その課題とは、「ポケットに1円玉を5つ持って、それで1円のものを5種類買ってくる」というものだ。そこでは、買い物のあと、そのときの店の様子、店員の表情、そのときのやりとりなどをくわしくレポートに書き、買った物と生徒の宛名入りの領収書とともに提出することが生徒に課された。厳密にいえば、それは課題をやって来なかった生徒のための課題、つまり罰であったというのだが、ここにもまた赤瀬川のお金に対する考えがよく表れているように思う。

この課題を与えられた生徒から提出されたレポートと物は、じつにバラエティに富んでいた。赤瀬川はそれらのなかからいくつか選んでエッセイで紹介している(初出は「バラエティ」1982年12月号、のちPHP研究所刊『超貧乏ものがたり』などに所収。なお、その文中には、教え子の一人だった現・マンガ原作者の久住昌之の名も見える)。ある男子生徒は材木屋まで行き、材木を1円分だけ売ってくれるよう頼んだという。店のおじさんは初め不信そうな顔をしていたものの、どうにか説明すると、ソロバンで計算を始める。そして店の奥から角材を持って来てモノサシで計り、だいたいこのぐらいだろうと爪で傷をつけた。そのときのやりとりが何ともおかしい。

《「一・五センチが一円なら十円は十五センチだね」
「え?」
「一・五センチが一円なら十円は十五センチだね」
「はい」
「と、百円は百五十センチだね」
「えー、……」
「どうもね、こんがらがっちゃって。へっへっへっ」》

(「一円玉のパワーを調べる」、赤瀬川原平『全面自供!』所収)

そう言いながら、おじさんはいざ切ろうとしたのだが、このとき選んだノコギリは歯がボロボロで、生徒は後ろから材木を押さえたものの上手くいかなかった。結局、ノコギリを変えてやっと切ってもらったという。

このレポートから、売ってもらった材木がドンと出てきたとき、赤瀬川は先生をやってよかったと思ったそうだ。読者としても、1円玉を介した最小限のやりとりのなかに、物の価値や、貨幣と物との交換の本質みたいなものがギュッと凝縮されているように感じられる。赤瀬川は、考古学の研究手法を現代に向け直した「考現学」の授業の一環としてこの課題を与えたのだが、それはまさしく考現学の初歩だったといえるだろう。彼は教師としてもすぐれた資質を持っていたのだ。
(近藤正高)

2に続く