仁志、清水、高橋由、松井、清原、江藤……。これは2000年ごろ、長嶋監督時代の巨人のスタメンだ。
当時の巨人戦は毎日テレビ中継されていたこともあり、覚えている方も多いのではないだろうか。
そんなスター選手ぞろいだった巨人軍の中、長きに渡って不動のトップバッターを務めてきた仁志敏久氏にお話を聞いてきた。

【3年連続で甲子園 仁志氏の高校時代】


1年夏での甲子園出場
まず、高校時代について。仁志氏は茨城の名門、常総学院に進学する。しかし、入学には「どうしても常総でプレーしたい!」というような思いはなく、たまたま中学時代に一緒にプレーしていた子の父親が常総の監督に紹介してくれたことがきっかけだそうだ。

そのような経緯で常総に入学した仁志氏は1年生ながらレギュラーを獲得し、1年生で迎えた1987年夏の甲子園にもスタメンで出場している。緊張はなかったのだろうか。

「緊張はほとんどなかったですね。自分は清宮くんとは違い、先輩についていくサブ的な立ち位置でしたから」
しかし、ご自身ではそう語るが、甲子園ではランニングホームランを記録するなどチームに貢献。その年の常総学院は決勝で敗れたものの、見事に準優勝に輝いた。
ところで決勝で当たった相手はあのPL学園。当時のPLは後にプロでも活躍する立浪、片岡、宮本慎也などを擁した甲子園歴代最高レベルのチーム。仁志氏は1年生ながら対戦してみてどのような感情を抱いたのだろう。

「いや、このPLは正直かなう相手ではないなと思いました。常総が決勝までいけると思ってなかったこともあり、決勝戦を戦えただけでも充分というのが正直な感想ですね。3年連続で出場してみて感じたことですが、甲子園は出場することに意味があり、そこから勝ち上がるにはよほどのチームではないと難しいです」
守備は苦手だった 仁志敏久氏が語る巨人時代の秘話

名将・木内監督から学んだ"覚悟"
仁志氏は常総で3年連続夏の甲子園に出場しているのだが、この常総を率いていたのは名将・木内幸男監督。高校野球ファンならば誰もがその名を知っている方だ。木内さんのもとでプレーしたことで学んだことはなんだろうか。仁志氏は「覚悟を持つ、自分の意思をはっきりさせるということ」だと言う。
発言や自らの意思よりもまず結果が求められる現役時代より、これらのことは今の解説者や指導者生活で生きているそうだ。

そういえば最近、仁志氏の指導者(U-12野球日本代表監督)としてのこんな行動がネットで話題になった。それは7人の遅刻した選手たちをベンチから外したというもの。
やはりそれも相当の覚悟がいったのではと思って聞いてみると「それはもちろんですよ。」と仁志氏。子どもたちの将来のことも考えた上での判断であったが、日の丸を背負っていることも考えると、どれほど覚悟を持って自分の意思で決断したかが分かるだろう。

【チームを自ら変えていった大学時代】


守備は苦手だった 仁志敏久氏が語る巨人時代の秘話

高校卒業後の仁志氏は、こちらも野球の名門として知られる早稲田大学に進学する。しかし早稲田は根性論的な野球スタイルであり、仁志氏も「自分の描いていたものとはあまりに違い、ギャップに苦しみました」と当時を振り返る。

しかし、自分がこの環境を変えればいいやと考え、先輩たちが去って主将に就任した仁志氏は本格的にチームを変えるため奮闘する。
「主将就任が決まったその足で部屋に行き、退部届けを書いて机にずっとしまっていました。何かあったらいつでも退部届けを出す覚悟で行動しましたね」

そこまでの覚悟があったからこそ、4年生最後のリーグ戦では選手たちだけでオーダーを決め、監督に「これでいかせてくれ」と直訴することもできたのだろう。結果的には主将としての仁志氏の活躍もあり、4年生最後のリーグ戦では見事に早稲田大学は優勝を果たした。

【守備は苦手だった? 巨人時代のエピソード】


ビッグマウスと呼ばれた入団前
早稲田卒業後、日本生命を経て1995年ドラフト2位で巨人に入団した。入団前には雑誌で自身の発言から「ビッグマウス」と書かれたこともあったが、そのことを仁志氏に尋ねると、「巨人には自分のようなタイプが珍しかったこともありますが、当時はビッグマウスという言葉が世の中に出たばかりでマスコミが使いたがっていたんですよ。ただ、自分は良い宣伝になったというくらいにしか思わなかったです」と振り返る。


実は守備が苦手だった!
さて、プロ入り後の仁志氏といえばゴールデングラブ賞を4回獲得するなど守備が上手いイメージが強い。しかし、社会人時代と巨人入団当初は守備に苦しんだそう。ではなぜ守備の名手と呼ばれるまでになったのだろう。
「プロになってから守備が上手くなったのは当時内野守備コーチだった土井さん(注:土井正三。イチロー入団時のオリックス監督としても知られる)の熱心な指導のおかげですね。セカンドなんて始めはどうやっても出来ず、ふて腐れて練習していたんですが、熱心な教えもありその気になりました」

ところで名手となった仁志氏の守備といえば、なんといってもポジショニングの上手さ。
「なんでそんな所に守っているの」というシーンをよく見かけた。これらの守備位置を決めるときは何かデータを参考にしていたのだろうか。「いえ、データはほとんど見ないで、自分の感覚でした。土井さんの言葉がきっかけとなって色々動いてみようと考えた」と仁志氏。
当時の巨人にはベテラン投手も多く、守備位置を定位置に戻せと言われなかったのか気になるところだが、仁志氏いわく言われたことはないのだそう。しかし、一度だけこんなことがあったのだという。
「巨人に移籍してきた工藤さん(注:現SBホークス監督)には一度だけ、守備位置を直せと言われましたね。でもそのときに『大丈夫だから』と言って変えずにいたら、真正面に打球が来まして(笑)。工藤さんもその後は一切守備位置については言ってきませんでした」
守備は苦手だった 仁志敏久氏が語る巨人時代の秘話
仁志氏の守備論が学べる著書

長嶋・原両監督の印象は
仁志氏の巨人時代、長嶋茂雄氏や原辰徳氏らが監督として指揮を執っていた。それぞれの監督は選手の立場から見てどのような方だろう。それぞれの印象を伺ってみた。
長嶋氏は私たちがテレビで見るイメージそのままの人だそう。選手をすごく信頼し、選手の判断に対しては文句を言うことはなく、仁志氏自身も長嶋氏から一度も怒られたことがないという。
原氏は仁志氏の学生時代からの憧れの人物。その原氏の背番号8を受け継ぐことは「子どものときには考えられなかったこと」と仁志氏。それが選手と監督の関係になって心境に変化があったかと聞くと「当時、原さんと自分の関係を面白おかしく書かれることもありましたが、監督と選手の立場なので当然言い争ったことなどはありません。ただ、監督と選手という立場になったわけですから、プロとして"ファンだった"という個人的な感情は一切なくしてプレーしていましたね」とのこと。
また、原氏と仁志氏にはプロレス好きという共通点があるが、プロレスについて一緒に話したことはあったのだろうか。そのことについて聞いてみると
「当時原さんは、僕がプロレス好きだと多分知らなかったと思いますよ(笑)。だからプロレスについて話したことはないです」

当時の巨人軍について
また、仁志氏が現役の当時は選手たちも豪華。松井・清原・上原などそうそうたるメンバーだった。そんな選手たちと一緒にプレーし、仁志氏はどんな思いを抱いていたのだろうか。
「類まれなメンバーたちの中でレギュラーを張れたのは何にも代えがたいことです。これくらい凄い選手が集まって相手に対峙するので、絶対に負けないと思いながらプレーしていましたね。また、自分自身が多くの人に注目されている環境でプレーするのが好きだったので、あの時代の巨人でやってたことには今でも誇りです」
巨人でプレーできたことが誇りだと言う仁志氏。ある選手との思い出も語ってくれた。
「当時の選手でいうと、同期入団の清水(注:清水隆行。現巨人打撃コーチ)の存在が大きいですね。彼がいてくれたから打撃に関して自分がプロで頑張れた部分があります」

【巨人退団後の仁志氏】


長くに渡って巨人で過ごした仁志氏であったが、2007年からは横浜ベイスターズ、2010年にはアメリカの独立リーグでもプレーした。
所属していた当時の横浜の印象を聞いてみると「外から見ていると若くて元気がいいチームだと思って見ていました。しかし、中に入ってみるとちょっと勝つのは難しい、下位に留まっている(注:当時の横浜は最下位の常連)それなりの理由があるなと感じましたね。しかし、自分は巨人から移ってきたので、勝つためになにをすべきかなど他の選手たちに伝えてました」と語る。

2010年アメリカ挑戦に至った理由についても尋ねると、「アマ時代から年に何回かは海外で試合していたので、憧れがありました。その当時はいろんな国に行き、様々な経験もしていたので日本人ひとりで通訳がいないような独立リーグの環境でもプレーできました」とのこと。

最後に高校時代からさまざまなチームでプレーしてきた仁志氏にどこのチームでのプレーが一番楽しかったか聞いてみた。そうすると意外なことにアメリカとの回答が。毎日グラウンドへ行きたいという気持ちはアメリカでしかなかったという。
仁志氏は常総学院→早稲田大学→日本生命→巨人と「野球エリート」とも言われるキャリアを歩んできたが、最後に選んでもっとも野球を楽しめたのは、それまでのキャリアや知名度も関係なく、一見すると劣悪な環境にも思えるアメリカの独立リーグだったのだ。
現役時代にさまざまな経験を積んできた仁志氏が、解説者や指導者として活躍するのを今後も期待したい。
(さのゆう90)
「仁志敏久の超守備論」