今年のオリックスは大補強もあり、期待されていましたが低調な成績に。改めて野球の怖さと奥深さを感じる結果となってしまっています。
さて、そんなオリックスが最後に優勝した1996年。イチローらとともにチームの主力選手として大活躍した田口壮氏にインタビューしてきました!

【イップスで外野手転向に】


まずは入団直後のお話をお聞きした。田口氏は1991年、ドラフト1位でオリックスに入団。しかし、入団早々のキャンプでイップス(送球恐怖症)になってしまう。このイップスは長年つきまとい、ボールを持ったときの不安は現役時代、常にあったという。

内野手として入団した田口氏であったが、2年ほど経ってもこのイップスの症状が改善されず、送球ミスが多かった。そんな田口氏を見かね、1994年からオリックスの監督に就任した仰木彬氏は「もうええやろ」という言葉をかけたという。内野手失格の烙印を押されたとも捉えられるが、田口氏はこの時どういう心境だったのだろう。
「球団もなんとかならないかとチャンスを与え続けてくれましたが、2年ほど経ってもそんな感じでしたので『それはそうですよね』という思いの方が強かったですね。言われても仕方ないなと」

その仰木氏の発言の後、田口氏は外野手へとコンバートされる。この決断は球団からのものか、それとも自分で判断したもののどちらなのだろう。
「自分からですね。仰木さんに『考えろ』と言われたので、先輩の福良さん(注:現オリックス代行監督)に『どうしたらいいですかね』と聞くと『外野に行かないとクビやろ』と言われまして。
仰木さんに言われた2日後には外野でいきますと伝えました。
いざ仰木さんに伝えたときには『簡単に答え出してなめとんのか、本当に外野で勝てんのか?』と怒られましたが(笑)」
「話さなくても分かった」田口壮氏が語るイチローとの思い出

【外野手コンバート後の田口氏】


しかし外野コンバート後の田口氏は、レフトのレギュラーポジションを獲得。早くも翌年の95年にはゴールデングラブを獲得するなどの活躍を見せる。外野手として活躍できた要因として田口氏は、イップスの症状が外野になってから落ち着いたこと、自分のように強肩・俊足の選手を仰木さんが好きだったことなどを挙げている。

その後も95年~97年に3年連続でゴールデングラブを獲得した田口氏であったが、98年から再び新外国人が来たからという理由で内野にコンバートされた。このコンバートはすんなりいったのだろうか。
「いや、いかなかったですよ! 仰木さんは『距離が近いからセカンドならなんとかなるやろ』と言っていたんですが、僕がどういう理由で内野手をクビになったのか知ってるでしょという話で(笑)。内野になった負担からか腰を痛めたりして、打率も下がりました」
確かにその言葉通り、セカンドコンバート2年目の99年、開幕直後からの大スランプで打率が.042まで落ちている。田口氏はこの時、「042で市外局番が立川まで来たわ、北海道(~0167)まではいきたくないな~」という話を周囲としていたエピソードも語ってくれた。

【仰木彬とイチロー 2人の印象は】


ところでコンバートのきっかけともなった仰木彬氏といえば、「仰木マジック」と呼ばれる采配などで知られる名将。選手として仰木氏に仕えた印象を田口氏に聞いてみた。
「よく仰木さんの采配は"マジック"と呼ばれますが、実はかなり緻密でデータを重視しています。だから本人からしてみれば、マジックでもなんでもないと思います。怖そうな風貌で大酒飲み、豪快な人なので緻密さは外から見えないと思いますが(笑)」
「話さなくても分かった」田口壮氏が語るイチローとの思い出

次に同期入団のイチローについても当時の印象を尋ねた。
入団当時からイチローの身体能力は凄まじく、「なんだこの身体能力は」と思ったという。また、「イチローとは野球の話をした記憶は全然ない」と語る田口氏。その理由をお聞きすると、
「特に守備に関してはお互い話さなくても、考えていることが分かりました。守備についている時、この打者はこういう傾向だからこう守ろうとアイコンタクトで共有してました。仮に意見が違っても『イチロー(田口)がこう動いたのは、こういう考えだからだな』と言葉なしで分かりあっていましたね」
凄い! まさにプロのみぞ知る感覚だろう。しかし、田口氏によるとそのような関係性になれるのはプロでもなかなかおらず、イチローとは守りに対する感性が合っていたため、そのようなことができたのだと話す。

【阪神かアメリカか 田口氏の決断】


その後もオリックスの主力選手として活躍した田口氏は2001年のオフ、FA宣言をする。阪神にいくかアメリカにいくかでかなり迷ったと振り返る。
「迷っていたときに星野さん(注:星野仙一。当時の阪神監督)から電話があり、『お前の人生だからお前自身で決めろよ』という言葉を頂いたんです。なんて男らしい方なんだと思いました。この言葉を聞いて、こんなカッコいい監督の下でもプレーしてみたいとさらに迷ってしまいました。
しかし当時32歳だったこともあり、変わるんだったら大きく環境を変えないと得るものが少ないと考え、アメリカ行きを決断しました。
最後はそうとうビビって決めましたが(笑)」

【「阪神に行きたくない10カ条」の真相】


ところで阪神と田口氏といえば、これを思い浮かべる方もいるのでは。1991年のオリックス入団前、田口氏は阪神への入団を拒否する声明を発表したことがある。このことについて話題を振ると、こんな答えが返ってきた。
「自分の中では当時も阪神が嫌いなどという思いはなく、若さゆえの至らなさが招いてしまったことです。オリックスの担当スカウトが大学の先輩だったこともあり、どうにかしてオリックスに行きたいという気持ちが強すぎました。そのときに発した自分の言葉がマスコミの方々に誇張されて伝わってしまったんです。今思えばなんにも言わなければ良かったのですが。当時は多くの方に迷惑をかけてしまいました。今でも申し訳なかったと思っています。」

【アメリカから日本へ】


田口氏は8シーズンをアメリカで過ごした後、2010年からオリックス復帰を果たす。しかし肩の故障もあり、2011年のシーズンオフに自由契約に。その後現役復帰を目指してリハビリするも、願い叶わず2012年の7月31日、現役引退を発表した。
田口氏ほどの立場であれば、引退試合を行うこともできただろう。だがそれをせずに現役にこだわった理由はなんだったのか。

「話さなくても分かった」田口壮氏が語るイチローとの思い出

「肩が治ったらまだ現役でやれると思ったんです。足も衰えていなかったですし、体型も変わりませんでしたしね。しかし時間がなく結局引退という形になってしまいました。」
しかし現役を目指して奮闘する田口氏の勇姿に多くのファンが勇気づけられた。

最後にファンにとっては気になるところを尋ねてみた。それは監督として球界に復帰しないのか、ということ。
「とにかく今は野球を外から勉強したいと思います。仮に監督のオファーがあったとき、100%の自信を持って『受けます』と言えるようになっていたいです」と田口氏。
しばらくは解説者として活躍する田口氏の姿をテレビで見られそう。日本の野球にもメジャーリーグにも詳しい田口氏から私たち視聴者も多くを学んでいきたいです!
(さのゆう90)
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