1月9日に『平成教育委員会2016』が放送された。現在のクイズ番組といえば、もっぱら平成教育委員会のようなタレント出演型がほとんど。

ところがかつてのクイズ番組は、視聴者参加型が主流であり、現在も存続しているのは『アタック25』、『高校生クイズ』ぐらいだろう。

今回は大所帯でのタレント出演型クイズ番組の草分け的存在ともいえる『平成教育委員会』の歴史を振り返っていく。

視聴率30%超! レギュラー番組時代の『平成教育委員会』


今でこそスペシャル枠の『平成教育委員会』だが、かつてはレギュラー番組だった。とはいえ、番組の構成は現在と変わらず、全国に点在する小中学校および高校の問題をタレント陣が解答し、最後に最優秀生徒の発表するスタイルだった。

1991年に放送開始となった『平成教育委員会』は1997年まで続いた。ビートたけしは「蓋を開けたらあっという間に視聴率が30%を超えた」と自著で述べている。
その言葉通り、『平成教育委員会』は高視聴率を記録し続け、たけしが事故から復帰した回は35.6%という記録的視聴率を記録した。


逸見政孝の死とビートたけしの事故


『平成教育委員会』は当初、「教師」役であるビートたけしと「学級委員長」役の逸見政孝が番組を仕切っていた。たけしと逸見政孝のやり取りは軽妙で、名コンビとして知られていた。
しかし、逸見は癌治療のため、1993年10月に降板。闘病の末に同年12月25日に死去してしまう。

そして1994年の8月にはビートたけしがバイク事故を起こし、1995年の3月まで休養を余儀なくされた。たけし不在時には明石家さんま、所ジョージ、大橋巨泉などが週替わりで「特別講師」として司会を担当している。

『平成教育委員会』の誕生 フライデー事件がきっかけ?


『平成教育委員会』の企画者はビートたけし。
そのきっかけは、自身が起こしたフライデー事件で仕事を休んでいた時期のこと。
当時のたけしはやることもないため、小学生の勉強をしていた。この時に問題集を解いて面白いと感じたことが、番組の構想に繋がったそうだ。しかし、テレビ局にその企画を話したところ、先例がなかったのか、「反応は決してよくなかった」と振り返っている。

それでも『平成教育委員会』はスタートを切り、かなりの高視聴率を記録した。そう考えると、ビートたけしの企画力の凄さに改めて驚かされる。


(ぶざりあんがんこ)