現在はバラエティ番組でも広く活躍中の元プロレスラー高田延彦。年末に復活した総合格闘技の大型イベントRIZINでは、統括本部長として「本職の場」に復帰した。

ふんどし一丁で大太鼓を叩くオープニングアクトを務めたのだが、目を見張ったのがその肉体美。総合格闘技の世界から引退して10年以上とは思えないほどにパンプアップされていたのである。それどころか、その肉体美は90年代初頭の全盛期を彷彿とさせた仕上がりだった。

写真家の宮澤正明はこう語っている。
「高田選手の身体はバランスが取れていて大変美しい。特に、30歳前後の頃の肌は素晴らしかった。筋肉の軟らかい部分と固い部分とのバランスが絶妙で、シャドウの入り具合の見事さは筆舌に尽くしがたい」
1962年生まれの高田にとって90年代初頭はまさに30歳前後。紫のパンツ&レガース姿で「プロレスリング世界ヘビー級チャンピオン」を名乗っていた頃の高田は、「最強」の肩書きにふさわしいプロレスラーだった。「最強」高田延彦、全盛期の名勝負を振り返りたい。

vsトレバー・バービック (1991年12月22日 両国国技館)


1991年5月に自身の団体「UWFインターナショナル(Uインター)」を旗揚げした高田。その年の12月には、両国国技館で「格闘技世界一決定戦」と銘打たれた大勝負が繰り広げられた。対戦相手のバービックはボクシングヘビー級の元世界チャンピオン。あのモハメド・アリを引退に追い込んだボクサーでもある。

高田はこの試合に備え現役の世界ランカーと練習するが、運悪く試合の1週間前に肋骨を骨折してしまい、呼吸のたびに激痛が走る最悪の状態の中で試合開始となった。

複数の医師から受けた「折れている骨の先が肺に刺さったら死ぬ」という宣告の恐怖を振り払い、高田は強烈なローキックを連打。キックの破壊力とただならぬ殺気にバービックは戦意喪失。1ラウンド2分52秒、試合放棄により勝利を収めている。
この精神力の強さ、まさに「最強」である。

vs北尾光司 (1992年10月23日 日本武道館)


元横綱・双羽黒こと北尾光司は、横綱昇進からわずか1年3ヶ月で親方と大喧嘩して廃業。その後、新日本プロレスでデビューするも解雇。さらに新天地SWSでも八百長発言をして再び解雇と、悪名高いトラブルメーカーだった。
ただ、品位は怪しいながらも横綱としての地力は本物。2m、150kgという恵まれた巨体が持つ圧倒的な打たれ強さに加え、この頃は「空拳道」という謎の格闘技を学び、強烈な蹴り技を身に付けていた。

ルールの最終決定が試合2日前の時点で立ち込める暗雲。しかも、「3分5ラウンド判定なし」と、高田が圧倒的に不利な条件である。
勢い付いている北尾が逃げ切る展開が予想されたが、高田の右ハイキックが北尾のアゴにクリーンヒット! 3ラウンド0分46秒でKO勝ちを収めている。

この勝負強さ、まさに「最強」である。

vsスーパー・ベイダー (1993年12月5日 神宮球場)


ベイダーは、新日本プロレスで最強外国人として君臨していた超一流プロレスラー。190cm、170kgの巨体ながら俊敏な機動力を誇り、すべてをなぎ倒す規格外の破壊力を武器にUインターでも猛威を奮っていた。
キックに活路を見出した高田が、14分23秒 腕ひしぎ逆十字固めに切ってとったが、真冬の屋外という悪条件にも関わらず、46,187人の大観衆が詰めかけた事実が何より凄い。
プロレス界初の神宮球場興行を大成功に収めた高田のカリスマ性は、まさに「最強」であった。


当時の高田人気は絶大で、1994年にはフジテレビ系『スポーツWAVE』のメインキャスターに抜擢され、1995年にはスーパーファミコンのゲームソフトにもなっている。
ゲーム名はその名もズバリ『最強~高田延彦~』。実名の高田を始め、北尾やベイダー「もどき」も登場している対戦格闘型のプロレスゲームだ。
ただし、リリース時期はプロレス史に残る伝説のイベント、新日本プロレスとUインターの全面対抗戦直後。高田が武藤敬司に破れ、「最強」にケチが付いた直後という最悪のタイミングであった……。
(バーグマン田形)
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