竹下登が右翼からほめ殺しの攻撃を受けていたことに端を発し、佐川急便の社長が暴力団との仲介を図る。ほめ殺しの鎮静化へと至る中で、議員たちに闇献金をしていたことが後々発覚したという問題だ。今回はこの事件の流れを見てみたい。
佐川急便事件とは? ざっくり振り返る
佐川急便事件の引き金となったのは、いわゆる皇民党事件。1987年頃、自民党に所属していた竹下登は、次期首相の最有力候補と見られていた。竹下は、恩義のある田中角栄を裏切ったことが原因で、右翼団体の日本皇民党からほめ殺し(「日本一金儲けのうまい竹下さんを総理にしよう」などと、だめにする意味でほめる)という形で執拗に攻撃される。このような事態を鎮静できずにいた竹下には、「本当に次の首相としてふさわしいのか」という統制力を疑問視する声も出ていた。
この皇民党事件を解決するカギとなったのが、当時の佐川急便社長だった渡辺広康。竹下が金丸信や小沢一郎に相談をした上で、暴力団と関わりがあった渡辺が仲介役として依頼されたのだ。渡辺を通じて、暴力団の稲川会と皇民党との会談の場が持たれ、竹下が田中角栄のもとへ謝罪しに行くことを条件に、ほめ殺しを止めることになった。実際は田中邸を訪れた際、田中真紀子から門前払いされたのだが……、これを機に嫌がらせは止み、皇民党事件は幕を閉じた。
佐川急便事件は、この皇民党事件鎮静化に至るまでの過程で起きた資金の流れが明るみになったことによる。
佐川急便事件によって起こった政治的できごと
闇献金についての捜査が本格化し、同年9月には金丸信が東京佐川急便から5億円もの闇献金を受けていたという政治資金規正法違反により略式起訴された。その責任を追及され、議員辞職。
疑惑は、竹下登と小沢一郎にも及んだ。竹下は、1992年11月の衆議院予算委員会において、証人喚問を要求される。佐川と会談した事実は認めたものの、それ以上のことについては不明瞭な回答をするに留まった。また小沢も翌年2月に証人喚問をするも、「お茶くみをしていただけ」と関与を否定、2人とも不発に終わった。
真相は明らかにされなかったが、自民党・社会党ともに信頼が落ちた。このことを受けて、小沢は主要政党と距離をとるようになる。羽田孜と渡部恒三と共に羽田グループを旗揚げ。
このように、1990年代前半の政治にも大きく影響を与えた佐川急便事件は当時の情勢を考える上で、忘れてはならないできごととなった。
※イメージ画像はamazonより「佐川急便 再建3650日の戦い」(「財界」編集部 著)