今年の2月に一人のプロレスラーが世界最大の団体WWEと契約を結んだ。中邑真輔である。

中邑は新日本プロレスで棚橋弘至と共に団体のエースとして重責を担い、低迷期だった新日本プロレスを立て直した立役者の一人。その中邑がWWEへと挑戦するまでの軌跡を簡単ではあるが記したい。

中邑真輔 デビュー戦は日本武道館


中邑真輔がデビューしたのは2002年8月、日本武道館での安田忠夫戦。プロレスラーのデビュー戦といえば、地方巡業の第一試合がほとんどであり、大会場でのデビュー戦は異例だ。
当時の中邑はアマレスでの実績に加え、総合格闘技の道場で練習を積んできたこともあり、それだけ中邑への期待が大きかった。それを裏付けるかの様に、デビュー後すぐにロスにある新日本プロレス道場に修行に出ている。

若くして団体のトップを背負った中邑真輔


中邑はロスから帰国後にIWGPヘビー級王座に挑戦。デビューしてから一年弱での挑戦で見事に史上最年少の24歳でIWGP王座に上り詰めたのである。この記録は今でも最年少記録であり、これだけ破格の扱いを受けたレスラーは新日本プロレス43年の歴史の中で誰もいない。

このようにデビュー後の中邑は若くしてトップに立ち、常に団体の責任を背負って戦ってきた。外敵である高山善廣から猪木が復活させたNWF世界ヘビー級王座、自身が持つIWGP王座との統一戦、全日本プロレスに流失したIWGP奪還、ブロック・レスナーやカート・アングルとのIWGP戦……など新日本プロレスの危機に中邑は常に乗り出し身を削ってきた。若くして期待と責任を背負って戦ってきたのである。

だが激戦が続いてきた中邑の身体が悲鳴をあげたのか、試合中に受け身を受け損ない大怪我を負い欠場に追い込まれた。

中邑真輔がカリスマレスラーになるまで


怪我での欠場から復帰した中邑は一転、ヒール路線を歩む。
当時新日本プロレス内で最大のヒールユニットだったGBHの矢野通と共闘してCHAOSを結成。復帰前よりも殺伐としたファイトスタイルへと変化する。
この頃から中邑の代名詞となったボマイェ(顔面への膝蹴り)を使用。だが殺伐としたファイトスタイルから昇華して現在のファイトスタイルと変貌し、新日本プロレスでカリスマ的レスラーとなった。

その活躍からWWEから「是非とも欲しいレスラー」にまでなった中邑真輔は4月2日にWWEデビューをする。世界最大の団体でも日本時代と同じような活躍を見せてくれるだろう。

(篁五郎)

※イメージ画像はamazonよりKAMINOGE vol.51
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