1991年 当時のプロ野球界は…
当時の球界では落合博満(中日)が日本人選手初の年俸調停に持ち込み、最終的に2億2000万円で決着。そのオレ竜が20数年後、渋チンGMとして球界を震撼させることになるのだから人生は分からない。
逆指名ドラフトやFA制度導入前夜の言わば「昭和のプロ野球」が色濃く残るこの時代。
サッカーのJリーグはまだ開幕すらしておらず、西武ライオンズは黄金時代真っ只中。若きスーパースター清原和博は「オフは彼女とハワイでゴルフばっかしていた」と豪快に笑い飛ばし、野村ID野球が浸透しつつあったヤクルトは広沢・池山・古田を軸に球団初の12連勝を記録。
藤田巨人はブラッドリーという終始不機嫌そうな顔をした助っ人を獲得し4位に低迷。ロッテはこのシーズンを最後に川崎球場に別れを告げ千葉移転へ、ドラフト名物パンチョ伊東はついに司会の座を退いて、甲子園では44年ぶりにラッキーゾーン撤去。
1991年に優勝した広島カープ 球場でビールかけも
そんな激動の1991年10月13日の夜、ファンと優勝の喜びを共有しようと広島市民球場グラウンドにビニールシートを敷いてのビールかけが行われた。スタンドの観客に向かって笑顔を振りまく就任3年目の山本浩二監督。
歓喜の中心にいたのは最多勝(17勝)と最優秀防御率(2.44)に加え沢村賞も獲得したMVPエース佐々岡真司、最高勝率(733)の北別府学、最多奪三振(230個)の川口和久、最優秀救援投手(32SP)のクローザー大野豊らタイトルを独占し投手王国を築いた面々。
この年のカープは、7月12日には首位・中日に7.5ゲーム差をつけられるも夏場に猛烈に追い上げ、最終的に中日とのデッドヒートを制した。春先に病気が発覚した炎のストッパー津田恒実のためにも頑張ろうとチーム一丸となっての勝利。
極度の長打力不足に喘いだ打線も、のちに90年代のカープを支える若手野手が台頭。
「シュワちゃん」にトレンディドラマ…当時の世相は
「25年前」と言ったら、映画『ターミネーター2』が大ヒット。主演のアーノルド・シュワルツェネッガーは当時のトップアイドル宮沢りえとCM共演をするなど、日本でも「シュワちゃん」の相性で親しまれた。大相撲は空前の若貴ブームに沸き上がり、ブラウン管の向こう側では『東京ラブストーリー』や『101回目のプロポーズ』といったフジテレビのトレンディドラマ全盛期。小田和正やCHAGE&ASKAの歌う主題歌CDはなんと250万枚以上売れまくり、バブル崩壊直前のニッポンのアンセムとして鳴り響いた。
ちなみに私は当時小学生だったが、お年玉を貯めて買いに走った任天堂のゲームボーイは3Dでもカラーでもなく、まだ小さなモノクロの画面である。
こうして振り返るとカープが最後に栄冠を手にしたシーズンは完全に「一昔前」だと実感する。まだバブルと昭和の空気が色濃く残る平成3年。生まれてから一度も広島の優勝を体験していない91年生まれ以降の若い野球ファンも多いだろう。
25年前、歓喜の胴上げで山本監督が宙を舞った頃、あなたはいったいどこで何をしていただろうか?
(死亡遊戯)
参考資料「週刊プロ野球セ・パ誕生60年」1991 平成3年(ベースボール・マガジン社)