ところで、そもそもボキャブラブームはどのようにはじまったのか。
『ボキャブラ天国』のスタート
『ボキャブラ天国』が1992年10月にスタートした当初は、視聴者から投稿されたネタをもとに作られたVTRをスタジオの芸能人が審査する番組であった。
その後、1994年4月に放送時間が拡大され『タモリのSuperボキャブラ天国』となると、同年10月より番組のワンコーナーとして「ボキャブラヒットパレード」がスタートする。これは若手芸人がVTR出演によりボキャブラネタを披露し、スタジオの審査員が合議制によりランク付けをするものだ。
爆笑問題も 出演していた芸人たち
「ボキャブラヒットパレード」では、爆笑問題に「不発の核弾頭」、BOOMERに「遅れてきたールーキー」といった具合に、各芸人にキャッチフレーズが付けられていた。当時の爆笑問題は太田プロからの独立騒動によりほとんど仕事がない状態であり、BOOMERも3人組の人気コントトリオであったAKIKOを解散し残った2人がコンビを結成していた。
言葉は悪いが「ボキャブラヒットパレード」は仕事のない若手芸人を寄せ集めた急ごしらえのコーナーであったともいえる。
また当時は、出川哲朗、山崎邦正、ロンドンブーツ1号2号といった、ボキャブラ世代にくくられない芸人も出演。さらに全国区では無名だったよゐこ、ますだおかだも出演している。全身白塗りのへらちょんぺなるカルト芸人もいた。
リニューアルした「ボキャブラ」
それでも徐々に同コーナーが高い視聴率を獲得するようになり、若手芸人に特化した番組へとリニューアル。それが1996年10月にはじまる『超ボキャブラ天国』だ。
番組に出演する若手芸人たちは“キャブラー”と呼ばれ、それぞれにキャラ付けを意識するようになる。X-GUN西尾とネプチューン原田の不仲キャラや、U-turn土田のオネエキャラ、幹てつやの万年最下位キャラなどだ。
さらに、女性のアイドル2人組が結成したパイレーツや、外国人の男女が組んだスティーブ&ジャニカなどあららさまなお仕着せのキャラクター芸人も登場するようになる。このことがコアなお笑いファンの反感を買うこともあったが…。
ボキャブラブームのピーク
ボキャブラブームがピークを極めたのは、1997年4月の改編により日曜深夜へ移ってからだろう。タモリが司会を退き、谷村新司とヒロミの2人体制となった。23時45分スタートという遅い時間帯にも関わらず、常に10%以上の視聴率を獲得し、中高生がこぞって見ていたことでも知られる。
この時期のフジテレビは視聴率不振にあえいでおり、日曜の同局の視聴率ランキングの1位が「サザエさん」2位が「ボキャブラ天国」といったこともあったようだ。
それでも、キャブラーたちの人気はうなぎのぼりであり、事務所の垣根をこえて出演者たちが営業へ向かう「ボキャブラパック」という売り方も存在した。
ところで、芸人たちのギャラも高騰したが、事務所によって本人へ渡る金額の扱いはまちまちだったようだ。U-turnの土田は、自分たちは給料制で地下鉄移動なのに、歩合制であったプリンプリンのうな加藤がジャガー、take2の2人がそれぞれセルシオとベンツEクラスに乗っており悔しかったと述懐している。
『ボキャブラ天国』自体は、深夜に移って半年後の1997年10月には、火曜の20時のゴールデンタイムへ舞い戻る。その後、半年ごとに放送時間や内容をリニューアルしてゆきブームは下火に。1999年9月に『歌うボキャブラ天国』が終了したことで、「ボキャブラ」の名前を冠したレギュラー放送は終了した。
あれほど一世を風靡しながらも、ボキャブラブームは実質的には3年ほどしか続かなかったのだ。
(下地直輝)
※イメージ画像はamazonよりクイック・ジャパン76 (Vol.76)