しかし、駅からちょっと歩くと、雰囲気は様変わりします。伊勢佐木町、長者町、果ては町名すら定かではない裏路地……。大型商業施設の明かりに煌々と照らされたメインストリートや、洋風造りの建物が立ち並ぶ「これぞ横浜!」と観光客が喜びそうな小洒落たスポットとは全く異なる、淫靡な雰囲気。
錆びついた看板の商店がちらほらと軒を連ねる、人気のない街並みには、昭和の残滓のようなものがいたるところに染み付いており、どこからともなく青江三奈の「アァ~…」という吐息交じりのあのブルースが聴こえてきそうです。
観光地としての「港町・横浜」に組み込まれることを頑なに拒否しているかのようなその街に、よく似合う女性がかつていました。横浜メリーと呼ばれた伝説の娼婦です。
横浜の「陰」の部分を伝える存在だったメリーさん
今や「メリー」といえば、「SMAP解散の黒幕」をイメージする方が多いと思いますが、こちらのメリーは、歌舞伎役者のように白粉を塗り、フリルのついた純白のドレスに身を包むという、驚くほど真っ白な白髪の老娼婦。96年くらいまで横浜駅や伊勢佐木町近辺によく出没していたらしく、30代後半から上の横浜出身者にとっては名の知れた人物です。
彼女が老いてなお、娼婦として街頭に立ち続けていた理由はよく分かっていません。けれども長年、この港町を彷徨う彼女が「明るく洗練された観光都市」以外の横浜を体現する、“物言わぬ語り部”だったことを、多くの"ハマっ子"が知っていました。
岡山で結婚するも離婚、アメリカ兵の愛人に
メリーさんが横浜にやってきたのは、1950年代。当時は戦争が終わったばかりの混乱期であり、衣食住全てが満足にいかない時代です。そんな状況下で、貧しき娘たちが進駐軍相手の娼婦(パンパン)として生計立てるようになるのは至極当然ななりゆき。
もともとは、岡山の出身で結婚もしていたという彼女。戦時中は軍需工場で働くも、人間関係を苦に自殺未遂をはかります。この一件がアダとなり離婚。子供はいなかったといいます。
戦後、米軍相手の慰安所で知り合ったアメリカ兵と愛人関係になり二人で東京へ。ほどなくして朝鮮戦争が勃発し、彼は半島へ出兵。戦争終結と共に母国へ帰り、そのまま帰ってきませんでした。
一人残されたメリーさんは、生きていくために旅立ちます。より“商売”のしやすい場所を求めて……。
優雅な佇まいから「皇后陛下」と呼ばれていたメリーさん
横須賀を経て、横浜へと辿り着いた頃には、既にいっぱしの娼婦となっていたメリーさん。この時30代。まだ薄化粧だったものの、着ているドレスは実に豪奢。
なお、メリーさんは将校以上の人しか相手にしなかったといいます。それは時を経て日本人客を取るようになってからも変わらず、声を掛けるのは恰幅の良いお金持ち風の男性ばかり。
また、メリーさんは他人から施しを受けることを嫌いました。老齢になりホームレスと化してからは、寝床としていたデパートやレストランの店先を追われるようになり、そうも言っていられなくなるのですが、見かねて手を差し伸べてくれた人には、なけなしのお金で購入したであろう刺繍入りのタオルを届けてくれたといいます。
1996年、忽然と横浜の街から消える
気位が高く義理堅い。そんな人物像が透けて見えるようです。時に酔っ払いから蹴られたりもしていたそうですが、そんな屈辱を受けてもなお、人として大切な何かを心に持ち続け、強く生きていたのでしょう。
96年の11月、彼女は横浜の街から地元・岡山の老人ホームに居を移し、05年、安らかに息を引き取ります。84年に及ぶ激動の生涯でした。
メリーさんがいなくなって20年。今の横浜の街に、戦後の面影を見出だすことは難しいかも知れません。
(こじへい)
※イメージ画像はamazonよりヨコハマメリー [DVD]