臨死体験をしたレスラー時代の馳氏
1990年6月、まだ新日本プロレスの若手レスラーだった馳は、後藤達俊とのシングルマッチに臨む。試合中、後藤が繰り出した「バックドロップ」の受け身を取り損ね、左のこめかみからリングに落下。意識もうろうのまま試合を終えるも、次の試合のセコンドに付くためにリングに向かう途中で昏倒してしまう。全身のけいれんから硬直が始まり、口から泡を吹いて失禁。リングドクターが駆けつけた時には、すでに心肺停止状態で、瞳孔も開いていた。
ドクターの人工呼吸と警察官の心臓マッサージで、1分後になんとか蘇生したが、馳はその間に幽体離脱して倒れている自身の姿を見るなど、いわゆる臨死体験をしていたという。翌日には意識は回復したが、1週間の入院と2か月間の試合欠場となった。夜眠れないほどの偏頭痛などの後遺症も残ったそうだ。
初の犠牲者は女子プロレスラー・プラム麻里子
馳の場合は、事後の適切な処置により九死に一生を得たわけだが、その後、リング上での死亡事故が多発した。とりわけ90年代以降、試合の過激化により、「受け身の失敗」「(特に頭部への)ダメージの蓄積」などによる事故が目立つようになった。
97年、JWPのプラム麻里子選手が、広島市での試合中に、対戦相手の尾崎魔弓選手の「ライガーボム」を受け、意識不明の重体に。病院に緊急搬送され開頭手術を受けたが、翌日、脳挫傷および急性硬膜下血腫により死亡した(享年29)。日本プロレス史上初の、試合中の事故による死亡事件となった。
有望な男性若手レスラーも…
2000年、新日本プロレスの福田雅一選手が、宮城県気仙沼市での試合中に、対戦相手の柴田勝頼選手の「ダイビング・エルボー」を顔面に受け、意識不明の重体に。5日後に急性硬膜下血腫により死亡した(享年27)。福田の場合は半年前から4か月間、硬膜下血腫で試合を欠場しており、その後遺症もあったのではと言われている。
業界の盟主・三沢光晴の死
20代レスラーのリング禍が続き、プロレス界全体で安全管理への危機意識が高まっていった矢先、09年にさらなる悲劇が起きた。業界最大手のひとつ「プロレスリングNOAH」の社長であり看板レスラーの三沢光晴の死だ。
広島市での試合中に、対戦相手の斎藤彰俊のバックドロップを受け心肺停止状態となり、病院に搬送されたが同日夜に死亡した(享年46)。三沢の受けたバックドロップは、特別危険なものではなく受け身も取れており、長年の頭部へのダメージの蓄積が大きかったのではないかと言われている。
事故を受けて、元プロレスラーの前田日明は「不運な事故じゃないと思うよ。(略)プロレスでは"セール"って言うんだけど、演技でするフラフラと、本当に効いているのと、ちゃんと見てれば分かるはずなんだけどね」と、現在のマット界の安全管理の弱さを指摘し、防げる事故だったと警鐘を鳴らした。
技の過激化、過酷な練習(あるいは練習不足)、ドクターやトレーナーの不在など、プロレス界が抱える「リング禍」の火種は今もくすぶったままだ。突然の死を遂げた彼らの無念に応えるためにも、レスラーの「労働環境」の整備が急がれる。
(青木ポンチ)
※イメージ画像はamazonよりNumber PLUS プロレスに殉じた男 三沢光晴