現役引退から18年余り。現在は参議院議員として、プロレス時代に培った人脈や度胸を武器に「闘魂外交」で話題を振りまいているアントニオ猪木。

猪木の代名詞的パフォーマンス、「闘魂ビンタ」&「1、2、3、ダー!」が生まれたきっかけは共に「ある大会」にあったことをご存知だろうか?

試合以外で始めて猪木のビンタを食らった人物は?


1990年2月10日、新日本プロレスの第2回となる東京ドーム大会が開催された。
猪木は坂口征二と組み往年の「黄金コンビ」を復活し、当時、売り出し始めたばかりの「闘魂三銃士」の橋本真也&蝶野正洋と対戦。世代交代を意味する大一番として、メインイベントに試合が組まれていた。

事件は試合前に起こった。控え室を訪れたテレビ朝日の佐々木アナウンサー(当時)が、猪木に対して、「もし負けたら大変なことに…」と、負け前提のような質問を繰り返したのだ。
無言を貫き、黙々とアップを繰り返す猪木だったが、最終的にブチ切れ!
「出る前に負けること考える馬鹿がいるかよ!」と一喝すると同時にビンタ一閃!「出て行けコラッ!」と、佐々木アナを控え室から追い出してしまったのだ。

引退間近?借金? アントニオ猪木のイラ立ち


前年に参議院議員となり、試合を控えていた猪木にとって久々のビッグマッチ。政界進出を機に社長から会長へと退き、現役引退の声が高まっていたことが、猪木の緊張状態に拍車を掛けていたことは想像に難くない。

さらに、当時の新日本プロレスは興業不振が続き、一節には借金が10億円近くにも上っていたとされている。
それを払拭するための東京ドーム大会であったが、当初予定されていたアメリカのプロレス団体「WCW」との提携が土壇場でキャンセルとなり、ライバル団体である全日本プロレスに選手の派遣を依頼した経緯もあった。
全日本プロレス社長は言わずと知れたジャイアント馬場。猪木とは犬猿の仲とされているが、新日本プロレス新社長の坂口との間には強固な信頼関係があり、そのパイプに救われたことも猪木的には面白くなかったのかも知れない。

しかも、初参戦となる全日本プロレスの選手は大歓声で迎え入れられ、肝いりだった“元横綱”北尾光司のデビュー戦(記事はこちら)には、絶えずブーイングが飛ぶ始末。様々なイラ立ちが、このビンタとなって現れてしまったのだ。

職務を全うした佐々木アナだったが、翌日には重度のムチ打ちと診断され入院。実に因果な商売である。しかし、猪木のビンタを公の場で受けた“素人第1号”と思えば、こんなに名誉なことはない……かも!?

6万人の大観衆と一体となるために始まった「1、2、3、ダー!」


肝心の試合では、猪木は体調不足もあって左目下を大きく腫らして鼻血を流すなど、大ダメージを受け防戦一方。必殺の延髄斬りで蝶野をフォールしたが、試合の盛り上がりはイマイチだった。
それを締めたのが初めての「1、2、3、ダー!」。それまでも、猪木は勝利の雄叫び的に手を挙げて「ダー!」と叫ぶことがあった。そこに注目したリングアナが、「せっかくの東京ドーム大会だから、その6万人で『ダー!』をやりましょう」と、呼びかけたのだ。
猪木はこのアイデアを採用し、さらに観客と一体となるパフォーマンスとして、カウントする予備アクションを加える。もっとも、当初は「1、2の3でダー!」であり、観客にやり方を冷静に説明する猪木に失笑が漏れる中、半ば無理やりに締めてしまったのだったが……。

パンチに反撃したビンタが思わぬ人気に!?


猪木のビンタは同年5月に再び脚光を浴びる。
ある予備校での講演で、生徒のパンチを腹で受ける余興を行っていた猪木が、格闘技経験のある生徒の強烈なパンチに対し、条件反射的にビンタで応戦してしまったのだ。その生徒が猪木ファンだったため、感謝の一礼で返したことから、思わぬハプニングも丸く収まる形に。そして、この一連の流れは「予備校生を元気づけるイベント」として、ニュースで拡散。
これを機に「猪木のビンタ=縁起物」として人気を集めることとなった。

今では「闘魂ビンタ」「闘魂注入」などと呼ばれ、もてはやされているだから、人生何が転機となるかわからない。
とりあえず、「元気があれば何でもできる」……ようである!?
(バーグマン田形)

※イメージ画像はamazonよりアントニオ猪木 21世紀ヴァージョン 炎のファイター~INOKI BOM-BA-YE~
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