みんな大好きカルト作家ホドロフスキー幻の『虹泥棒』は意外と泣ける作品だった!?

ライター・編集者の飯田一史さんとSF・文芸評論家の藤田直哉さんによる、話題の作品をランダムに取り上げて時評する文化放談。前編記事に続いて映画『ホドロフスキーの虹泥棒』について語り合います。


『虹泥棒』は祝祭の後の映画?


飯田 で、『虹泥棒』はホドロフスキー監督の1990年作で、ヨーロッパのみで公開された幻の作品がついに日本で、というわけなのですが……。虹=サイケ、つまり60~70年代の黄金時代を盗まれてしまったオッサンたちの物語という感じかもしれない。だからセンチメンタルだし、わりとまともだし。

藤田 69年の『エル・トポ』や73年の『ホーリー・マウンテン』ほど「いっちゃってる」感じではなくて、89年の『サンタ・サングレ』のような、落ち着いたというか、失望感すら滲んでいるような作風ですね。

飯田 ホドロフスキーなのに普通にちょっといい話でびっくり。脚本がホドロフスキーじゃないんだよね。あとメジャー資本が入っているから、やっぱりプロデューサーとかがうるさかったのかなあ……などいろいろ思いました。

藤田 『サンタ・サングレ』に近い感じでしたね。『サンタ・サングレ』って、母親に操られている(と思い込んだ青年)が、実はそれは幻影だった、と醒めて終わる荒涼感のある映画でしたが、こっちにも通じるものがありました。

飯田 あらすじ的には、大金持ちのルドルフが死にかけて遺産を相続すると思われている甥(その金持ちも甥メレアーグラも頭がおかしい)が、他の一族の人間から隠れるために(?)下水に住むと。で、そこに盗品を届ける泥棒が主人公ですね。
 金持ちの名前がルドルフで、ホドロフスキーはタロットの専門家(今度、国書刊行会からホドロフスキーのタロットが2万円くらいで発売されます)ですけど、ルドルフはやっぱ「皇帝」のカードから意味が取られてるんだろうなあと。タロットは他の作品でもよく出てくるモチーフですが。

 タロット、予言、フリークス、娼婦、バザー、動物といったおなじみのモチーフはいっぱい出てくるけど、むしろそれが主役だった『ホーリーマウンテン』と比べるとまぶしてあるていどなのが『虹泥棒』。

藤田 タロットカードが、今回は、かなり象徴的に使われていましたね。

飯田 タロットを使ったホドロフスキー言うところの「サイコマジック」については自伝『リアリティのダンス』に書いてありますが、読んでもよくわかりませんでしたw
 で、あらすじに話を戻すと、主人公の泥棒は、遺産をくれるという約束で五年もメシとかを甥(といってもいい歳のおっさん)のメレアーグラに届けているんだけど、メレアーグラの方は下水に流されて死んだ犬のクロノスの復活を願っていたり、ソクラテスの最期がどうだったとかを話したりめんどくさいので泥棒はうんざりしている。そこに……という話ですね。

藤田 『ホドロフスキーのDUNE』などを観ている観客が期待していたような壮大なビジョン、壮大な革命を想定して観に行くと、肩透かしをくらうでしょうね。今回は、流れに抗う微かな抵抗……みたいな話ですから。随分としんみりしちゃっている。
『エル・トポ』と『ホーリー・マウンテン』と比べたら、変な飛躍とか、変な構図とか編集は、あんまりなかった。祝祭感や「聖なるもの」も『エルトポ』『ホーリーマウンテン』ほど熱狂的ではないし。

飯田 ただ、主人公に夢を見させるけど最後は叶わないという意味では『ホーリーマウンテン』と同じだよね。『ホーリーマウンテン』は有名な話だけど、神秘主義的なモチーフ満載で主人公たちが超越をめざすような展開だったのに最後は「これは映画です」ってちゃぶ台返しして終わるという意味でも衝撃の作品だった。
 『虹泥棒』はそういうメタなことはしないものの、「いけるかも!」と思っていたけど叶わないという意味では似ている。
ただ、『虹泥棒』のほうがラストはポジティブですね。
 メビウスと組んだ『アンカル』のテーマは「夢見ることは生きること」だったけど、『虹泥棒』にも通底している。たとえ叶わなくても夢がある、違う世界を夢想するから人は生きられる、と。


めちゃくちゃカネをかけて「世の中カネじゃないんだ!」と訴える作家


藤田 主人公の泥棒が、「金よりも幸福が大事だ」という変人な甥と地下室で暮らす。甥は、宗教的な造型のキャラクターで、下水で死んだはずの犬と腹話術で喋っていて、泥棒のほうはそれを気狂いだと思っている。でも、遺産目当てで養っている。しかし、後半、大洪水になった町の地下水道を水が溢れている中、命を張って助けに行くところが感動的になっている。金ではない別のものを大事にするという回心が泥棒に起きる。宗教的な話です。

飯田 「世の中カネじゃないんだ! 」というホドロフスキーイズムが炸裂してた。
 幻の作品になった『DUNE』や、『アンカル』なんかがいろんなクリエイターにパクられまくったことを考えると、悪気なくコソ泥しまくる主人公の設定はなかなか興味深い。

藤田 もはや聖なるものも、宗教的なものも成立しえない俗悪な世界に、敢えて猥雑な宗教性をぶつけるという点で、テリー・ギリアム監督の『フィッシャー・キング』と『ゼロの未来』を連想しました。工業的な世界観と、サイケデリックと、お祭りと、宗教的なもののミックス感も。

 タルコフスキーの『ノスタルジア』のようでもありますね。あの洪水の迫力は。大洪水に襲われた中、その水に抗って、金よりも命を救おうとする。そのことで、泥棒がある種の救済を得る。不思議な話です。

飯田 ノアの大洪水のイメージもあるのかな。

藤田 最後の、犬が生きているというのは、どう解釈しましたか?

飯田 ルドルフの甥メレアーグラの愛犬である「クロノス」(時間)が不在になっている、死んだと思われているあいだはまさに時が止まっていたように停滞していた関係性が、ルドルフが死んで時が動き出し、そしてクロノスも見つかる、という構成なのかなと。あの犬が本当に生きてるかどうかはわからないけどね。泥棒が見た夢かもしれないし、泥棒自体死んでるのかもしれないし。ただ、時間の象徴でしょう。

藤田 『サンタ・サングレ』からの連想ですが、あの甥もルドルフも、存在していないで、実は犬だった、という、「泥棒の妄想だった」オチもありえるのかもしれない。ルドルフは犬に遺産相続をさせようとしていますしね。
「夢」のテーマからすると、色々解釈の可能性がありそうな感じがしました。

性と聖のモチーフと、他では観られない発想


藤田 ルドルフも、娼婦達(レインボウガール)に遺産を相続させちゃうし、「聖」「性」「俗」などがぐちゃぐちゃで、そこがホドロフスキーらしいですね。

飯田 セックスすると人間として別のステージに突入する、というのはホドロフスキー作品によく出てくるモチーフで、『虹泥棒』でもルドルフが7人の娼婦とセックスすると昏睡状態に陥り、『アラン・マンジェル』では主人公がふたりの女とセックスすることで精子が健康になったり両性具有のキリストを覚醒(?)させたりする。こんなに性を超越の象徴として扱う作家、いまどきいないでしょう。

藤田 性と聖のこの関係って、確かに、今時なかなかこう描く人はいないですよね…… 60年代、70年代には、そういう感覚は、あるところにはあったと思う。今は、サブカルチャーの領域でも、あんまり見なくなってしまった。感性が変わったのかな、と思うところもあります。バタイユは、「聖なるエロティシズム」みたいなことを、『エロティシズム』で書いてます。

飯田 ホドロフスキーはあんだけイケメンだから絶対やりまくってたと思うんだけど、童貞力の結晶のような性への関心と象徴的な意味づけを延々できたのが本当にすごい。あ、でも最近の作品は女性よりも父子関係、家族関係のほうがメインですかね。
『虹泥棒』はぶっ飛んだものではなかったですけど、細部はやっぱりホドロフスキー節でよかったですよ。シェイクスピアの『リア王』のせりふを言いながら絶命する役者のおばはんとか、17時間磔になってるサーカス(?)のひととか、雑踏で走り回るがきんちょの群れとか。


藤田 冒頭の金持ちのオッサンが、稲中に出てくるようなキャラで面白かったですね。遊園地にあるような動物の乗り物に乗って、犬にキャビア食わせて、シンバルを掻き鳴らして。あそこと、サーカスはホドロフスキーらしかった。けど、今回の見所は洪水なのかな。あんなにガチな水量を実際に流すとは思わなかったw
 めっちゃ下水をネズミが大量に流れてくる映像なんて、最近は見られないかもしれない。動物虐待で怒られちゃうでしょう。

飯田 下水に水があふれまくるなかおっさんふたりが移動していくのがクライマックスだけど、あれはよく撮影したなと思った。あの迫力はすごい。
 小人が子どもにボコボコにされるというPC的に完全にアウトなカットとか、なかなかホドロフスキー以外では見られない描写が随所にあった。

藤田 PC的に今ならアウトとなるかもしれない、けど、『フリークス』もそうだけど、アウトサイダーとかフリークに属する人たちを敢えて映画の中に出すことは、その当時は挑戦的でもあったし、彼らに対するリスペクトや愛情もあったと思う。ある程度幻想を投影する対象にしちゃっている部分は、批判されてしまうかもしれないけれども。でも、「そういう人たちもいるんだ」っていう雑種性をそのまま肯定しようとする意志をぼくは感じるので、あんまり不快感は感じないですね。


飯田 そうですね。世界はそれくらい当たり前に多様で猥雑なんだと示しているのがホドロフスキーだと思います。寺山修司と比べても、見世物として扱っている感じはそんなにしないですね。
「下水に根城をつくって住む」ってゲームではよく見るけど、この映画では地下世界のわくわくする感じもよかった(実際にやったら、くさくて耐えられないと思う)。
 あと、相変わらず動物をどうやって手なずけているのかが謎。冒頭がネズミに魚をあげるカットですが「ネズミってあんなに言うこときくものか?」とかね。『ホーリーマウンテン』でもトカゲに服着せたりしてるの、よく撮れたなと思うし。

藤田 『虹泥棒』というタイトルから、あるいは過去作からの連想に反して、今回はサイケ感が全然なかったのは、何故なのやら。盗まれた虹を取り返すまでの、地下生活の陰鬱さ、みたいな感じがしますね。そしてこの映画のあと、しばらく映画は撮らなくなってしまう。本作がイギリス資本の唯一のちゃんとした「大作」らしいのに、「金も名誉もいいや、虹が戻ってきたから」的な結末を描いて、実際、映画産業にも一端見切りをつけちゃったのは、なんか味わい深いですね。

飯田 本当だよね。BDの『アンカル』が86年発表でベストセラーになって、『虹泥棒』を90年に撮って、映画はそのあと23年撮らないわけだからね……他の仕事はしていたみたいだけど。
 というか2016年に新作を撮って2017年に日本でも公開なんですよ! 1929年生まれだから、今年で87歳なのに。

藤田 新作の『Poesia Sin Fin』というタイトルからして、結構楽しみにしています。
 ホドロフスキーは金より魂だ、幸福だ、芸術だ! と、他人の金をめっちゃ使って作品を作りながら言えた。奇跡的な時代であり、作家ですね。
 こういう壮大なヴィジョンを持った、誇大妄想的な作家が、実際に支持されて、作品を作れていた時代があったということが、まだホドロフスキーを知らない新しい世代に伝わるといいですね。やっぱり『ホーリー・マウンテン』『エル・トポ』『ホドロフスキーのDUNE』辺りを先に見て。今回は、失ってしまった「虹」を取り戻したい……っていう、ちょっと苦味とノスタルジィのある作品なんで、観るとしたら、他のを観てからがいいかも。
 後半の洪水のシーンは、劇場で観たほうが迫力あると思う。洪水はわが魂に及び(大江健三郎)……ではないけれども。
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