山田孝之がカンヌ映画祭でパルムドールになるために映画を撮る……というコンセプトのドキュメンタリードラマ『山田孝之のカンヌ映画祭』。
テレビ東京系で金曜深夜0時52分放映。
テレビ東京オンデマンドでも見られる。
どこまでフィクションなのか時々わからなくて困る。それを楽しむ作品です。
「山田孝之のカンヌ映画祭」7話。情緒不安定な山田、ブレない芦田愛菜(凄い)
山田孝之、一度壊れる。その後迷走する。

1話から6話までは、「カンヌで賞を取る」と山田孝之は浮つきまくり。お上りさん気味にカンヌの下見をする有様。
やめて! 恥ずかしい!

それを完膚なきまでに潰したのが、6話後半で出てくる、カンヌと関わりの深い河瀬直美監督。

「そもそもなんで俳優なのに映画のプロデュースしようとしてるの?」
「何かのためにじゃなくて自分の魂のために、みたいのはないの?」
今まで作ってきた、はりぼて「カンヌっぽい映画観」を、こてんぱんにする。

よかった、誰かに山田孝之を叱ってほしかったんだよ(『赤羽』の時もだけど)。
と、感じさせられてからの7話。山田孝之のが、いっぺんに映される。

曖昧になる俳優と役の境界線


山田孝之をショートムービーに出演させた河瀬直美。
彼女は脚本を重視しない。俳優に与えられる情報量が極端に少ない。

ディティールよりも、演者が真剣にカメラの前にいること自体を、彼女は撮ろうとする。
「頭の中だけで考えたものってそんなに重要じゃなくって、彼がそこで生きてくれていることのほうが、カメラがその場で回っている瞬間が、リアルでしょ。形として何かきれいに作るというよりは、本気でうそをつく」

キャラの行動は、なんらかの感情と、今までの生活が元になるもの。
情報量が少ないと、ここを俳優が考えねばいけない。
となるとベースになるのは、自分の過去の経験。
キャラの感情や生き方を、自分の中で捏造する必要がある。


必然的に、今までの自分の人生の全部と、向き合うハメになる。
楽しいことも辛いことも、目を背けられない。
どんどん、本当の自分と、虚構の役の、境界線が曖昧になる。

「本気でうそをつく」ことを演じた後、追い詰められて号泣する山田孝之。
精神にダイブしたら、やんちゃな山田孝之ですら溺れてしまった。
その溺れた状態こそが一番のリアル、と考える河瀬直美のやり方は、山田孝之のイニシエーションになった。

「河瀬組にようこそ」
説得力抜群なんだけど、軽い洗脳だよこれ。怖いよ。

撮り終えたあとの山田孝之は、すっかり鬱状態に。
『山田孝之の東京都北区赤羽』の状態が戻ってきたかのよう。
「山田孝之のカンヌ映画祭」7話。情緒不安定な山田、ブレない芦田愛菜(凄い)
「山田孝之の東京都北区赤羽」は、スランプになった山田孝之が、赤羽で自分探しをするドキュメンタリードラマ

河瀬直美による、俳優・山田孝之への深い敬意と、「映画ってそんなに甘くねえぞ」というキツイ一撃。
このまま「河瀬組」で俳優としてカンヌ目指した方が断然よかったのに。


これで映画を作るって無理だって山田くん


問題は後半パート。やっぱり撮るらしい。
山田孝之の提案した映画の撮り方は、こうだ。

1・プロット(カンヌで作成済み)
2・山田孝之がざっくりイメージ化する。
3・漫画家・長尾謙一郎にイメージだけ伝え、自由にイラストを描いてもらう
4・その絵から、役者とスタッフがイメージし、撮影に反映させる

山下敦弘、呆然。「これで映画を作るって無理だって山田くん」
「脚本はなくていいんです」「セリフはその場に行けば出ます」
全アドリブで撮ると言い出す山田孝之。
演出すらも。
無理だって山田くん。

自分が体験した「自分と、役・物語が、溶け合ったものを撮る」というのを、スタッフ全員でやりたいらしい。
こうなると主演である芦田愛菜の負担がバカでかくなる。
「らいせ(ヒロイン)に関しては、芦田さんが言うことがほぼほぼ正解にはなっていきます」
母殺しをした少女の、生い立ちと心情。
芦田愛菜が自己の中に捏造し、自分に重ね、本気でうそをつけ、と。
いやいやそれ重すぎるでしょう。彼女を信頼しているのはわかるけど。

もっとも、試みとしては今までになく、正直興味はひかれる。
でも時間がない。
「ジャンル映画(エンタメ)」とフランスで言われた『穢の森』が、実験映画へと迷走しはじめた。
「原案:山田孝之 マンガ:長尾謙一郎」でコミカライズするのならまだわかる。
山下敦弘監督、流石に一回キレていいと思います。

河瀬直美の映像理論は作中でかっこよく撮られているが、必ずしも「正解」ではない。
もしこのドラマが「カンヌで受け入れられることありきの方法論」を突き詰めるなら、それはそれで(失敗しようとも)一つの映画の捉え方。
最終回で比較できるようになることを期待。

ギリギリつなぎとめている芦田愛菜


緩急が異常な迷走の様子をまとめているのが、芦田愛菜の存在だ。

前半の鬱パートは、「河瀬直美映画論」ドキュメンタリーとしての色が非常に濃い。
だがこれは、あくまでもフェイクだ。
芦田愛菜が一人佇む、妙に詩的なシーン。
このドラマでは彼女のソロショットは、妖精的な扱い。2話のランドセルといい、「ファンタジー」としての意味合いが強い。
ちゃんと嘘くさい。ギリギリ「フィクション」になっている。

その一方で、後半の躁パートでは、山田孝之が説明なしにトンチンカンなことを言い出すので、ギャグ度が高い。
これをつなぎとめるのが、「現実」担当の芦田愛菜。
構図が工夫され、画面に少しでも彼女が映るようにされている。
暴走する山田孝之に対し、真面目な視線を向ける12歳の少女。
これから一緒に仕事する、現実の子どもの俳優があなたのことを見てますけど、大丈夫ですか、と随所で釘を刺してくる。

いろんな映画関係者の前でもブレずに「芦田愛菜」を演じる彼女は、本当に頑強。
一度くらい主役になって、感情大爆発させて、泣いたり怒ったりしてほしいところはある(フェイクだとしても)。当時受験生の小学生ですもん。
でもきっと、芦田愛菜は「芦田愛菜」を演じるプロであり、山田孝之のそばに立つ子ども役であり続けるだろうから、今後も絶対ブレないんだろうなあ。

8話ではキャスティングを始めちゃう。もう戻れない。不安しかない。
なにより、監督なのになんの仕事もさせてもらえない、山下敦弘の胃が心配です。

(たまごまご)