第4回WBCでニッポンが盛り上がっている。「JAPAN」のユニフォームを着て、球場だけでなく街の居酒屋やスポーツバーに集結。

初戦のキューバ戦視聴率は関東地区22.2%を記録し、普段は野球をあまり見ない人たちを巻き込む「春の野球フェス」状態である。

スポーツの代表戦があると、試合会場以外に集まって観戦という形態が定着したのは、2002年開催の日韓W杯の貢献度が大きい。「パブリック・ビューイング」という言葉を頻繁に聞くようになったのも、渋谷のスクランブル交差点でハイタッチをかまし出したのも、この頃からである。

日本代表に完全密着した『六月の勝利の歌を忘れない』


日韓W杯グループリーグ日本vsロシア戦の視聴率はなんと66.1%を記録。さらに決勝戦のドイツvsブラジルも65.6%と、まさにサッカーバブル絶頂と言っても過言ではないお祭り騒ぎ。

ついでにオフィシャル・テーマソングは、当時大人気バンドのドラゴンアッシュが奏でる『FANTASISTA』。もちろんベルギー戦とロシア戦で2試合連続ゴールを決めた稲本潤一は一躍国民的ヒーローに。

そんな熱狂の裏側をチームに完全密着して記録し続けたドキュメンタリー作品が『六月の勝利の歌を忘れない』である。

貴重な映像の数々、監督は岩井俊二


監督は当時売れまくっていた岩井俊二と、ここら辺にもサッカーバブルの勢いを感じさせる人選。作中「5.25」「5.26」とテロップが入り着々とW杯開幕へ進んでいく中、よくぞここまでカメラが入ったなと思わせる映像の数々。

赤鬼トルシエ監督がロッカールームにて、温和な表情でスピーチの練習をする様子や、戸田和幸の赤いモヒカンに「それ何で固めてんの?」とバスの中で聞くチームメイトの姿を捉えている。

当時、中田ヒデや宮本恒靖は25歳、“黄金世代”と呼ばれた小野伸二や稲本は22歳と驚くほど若い。日本代表のベースキャンプ地、静岡県の純和風リゾートホテル「葛城北の丸」に足を踏み入れた瞬間、その古い民家を移築して建設した重厚な迫力に「マジ凄くない?」とビビる選手たち。

試合当日、異常な数のサポーターがスタジアム周辺に集結し、バスの中からその様子を眺め「SMAPになったみたい」と驚愕する小野伸二。


あの時期、確かに皆熱に浮かされるようにサッカーに狂ってた。いつの時代も熱気とは一種の狂気である。

小泉総理に半裸で抱きついた稲本潤一


試合シーンはアニメーションのような加工が施され、本作のメインはあくまで舞台裏のチームの姿だと強調する演出。

ここで見せたいのはプレーよりも、ロシア戦勝利後ロッカールームを訪れた当時の小泉総理に半裸で抱きつく稲本潤一の姿。
それに「おまえ、すごいよイナ」と驚愕する森岡隆三。「ないで、総理と抱き合うことないで」とドヤ顔の22歳稲本はまさに人生の絶頂で嫉妬する気も起きないほどキラキラしている。

『六月の勝利の歌を忘れない』の名シーン


この作品で有名なシーンは、決起集会の食事時に青空の下、嬉しそうにプールに飛び込む選手たちの姿だろう。

ベテラン秋田豊の誘いに乗り、服を着たままプールに飛び込むトルシエ監督。最年長・中山雅史もバスタオル1枚で飛び込み場を盛り上げる。びしょ濡れのまま「まぁ俺の言葉よりヒデの言葉が必要でしょう。ヒデー!ヒデー!」とバスタオルを腰に巻いたまま絶叫するゴン中山。

仕方ねぇなといった感じで出てきた中田英寿は、ユース時代からの盟友、故・松田直樹に突っ込む。
すると松田は唐突に「中田が飛ぶーぞ!中田が飛ぶーぞ!」とコールを始め、それに乗った他の選手は中田ヒデからマイクを奪い、プールに突き落とすわけだ。一瞬遅れて「中田違いやっ!」なんて突っ込まれながらあとに続くイケメン中田浩二。


これを見ると、4年後のドイツW杯でも孤高のヒデと若いチームメイトとの橋渡し役、松田直樹の存在がチームに必要だったことが分かる。

享年34歳……早すぎた松田直樹の死


日韓W杯から9年後の11年8月2日、松田直樹は練習中に倒れ、心肺停止の状態で松本市内の病院に搬送されたが意識は戻らなかった。享年34歳の早すぎる死。その約半年前に発売された『フットボールサミット』中田英寿特集の中で、松田が貴重なロングインタビューを受けている。

「チームで中田が特別な存在になり過ぎないよう、何とか自分のキャラクターでいい方向に行くようにと考えていた」「中田と自分は合わなすぎて合った。自分も何とも思わなかったから気楽でしたし。就職の時もあいつに電話してるし」といった具合にふたりの関係性を赤裸々に語っているのだが、最も印象に残ったのはU-15代表時代のエピソードだ。
最初は天才少年・財前宣之の方がインパクトが強く、中田を意識するようになったのはもう少しあとだと前置きしてから松田は言う。

「よく東京駅の銀の鈴で集合したんですけど、そこで最初に来るのが中田で、次がオレだったんですよ。東京に住んでいるやつは計算がつくんですね。でも、あいつは山梨の田舎で、オレも群馬の田舎なんで、なんかあったら不安だから、中田1番、オレ2番って感じ(笑)。そういうイメージはいつも強かったですね」

世界のスーパースターヒデじゃなく、俺にとってはいつまでも山梨の中田。
そしてご存じの通り、銀の鈴で待ち合わせていた田舎の高校生たちが、その後日本サッカーの歴史を開拓していくことになる。
『六月の勝利の歌を忘れない』_____確かに我々はあの狂熱の中で目撃した、中田英寿や松田直樹のプレーを永久に忘れることはないだろう。


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『六月の勝利の歌を忘れない 日本代表、真実の30日間ドキュメント』
発売日:2002年11月20日
監督:岩井俊二 出演:日韓W杯日本代表チーム

キネマ懺悔ポイント:96点(100点満点)
と、他人事のようにコラムを書いてみたが、実は俺は当時の完成試写会に行っている。大学卒業後W杯をがっつり観たあと、就職活動をして合格したのがこの作品の映像制作会社だったからだ。しかし、最初の数日間のレース場研修ロケで「なんか大変そうだな」と採用辞退。ディレクターから「もったいないよ。一緒にいいもの作ろうよ」と電話を貰うも頑なに拒否。その節はご迷惑おかけしました。中溝、なんとか元気にやってます。
(死亡遊戯)


※イメージ画像はamazonより六月の勝利の歌を忘れない 日本代表、真実の30日間ドキュメント 1 [DVD]


(参考資料)
『フットボールサミット』検証・中田英寿という生き方(株式会社カンゼン)
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