それでも、先発マウンドに上がった菅野智之は6回3安打1失点(自責点0)と“日本のエース”の名に恥じない好投。
その勇姿を現地の解説席で見守ったのが原辰徳だ。元侍ジャパンの優勝監督として、そして時に「トモユキはねぇ~」なんつって甥っ子を応援する伯父さんとして。
もしも80年代にWBCがあれば、その中心で活躍したであろう巨人の4番サード原辰徳。実は90年代の若いプロ野球選手から最も憧れられていたのは、この男だった。
プロ野球選手に憧れられた原辰徳
伊藤智仁(元ヤクルト)、上原晃(元中日)、近藤真市(元中日)、田村勤(元阪神)ら80年代後半から90年代前半にかけて、一瞬の煌めきを残した投手たちに迫った名著『マウンドに散った天才投手』(松永多佳倫著/河出書房新社)。その中での各々のインタビュー中、やたらと連呼される名前がある。「原辰徳」だ。
対戦して印象に残ったバッターとして彼らが上げるのは、当時最強打者の落合博満でもランディ・バースでもなく原。三冠王はもちろん、首位打者も本塁打王も獲ったことがない若大将。
「昔から巨人が好きで原ファンです。原さんと対戦する時はミーハー的な気分で『原だ!』と思ってましたね」
球史に残る高速スライダーを操った伊藤智仁は打席に原を迎える度に高揚感があったという。
「プロ野球で一番記憶に残っているのは対巨人戦初登板。
まるで子供のように無邪気にはしゃぐのは元沖縄の星・上原晃だ。まだ10代の上原にとって、キラキラした背番号8の存在は花の都大東京そのものだった。
ある日、東京ドームの対巨人戦で練習中に原とすれ違った際、「昨日はいいピッチングだったね」と突然声を掛けられる。マジかよ? あのスーパースター原辰徳が自分のことを知っていてくれたぞっ! 上原は天にも昇る気持ちだったという。
団塊ジュニア世代の「俺らのヒーロー」
伊藤は1970年生まれ、上原が69年生まれ。彼らはいわゆるひとつのONに間に合わなかった子ども達だ。物心がついて、テレビをつけたらそこにいたヒーローは長嶋でも王でもなく、81年に巨人入団して新人王を獲得した原だった。
ちなみに72年生まれでWBC侍ジャパン公認サポートキャプテンを務めた元SMAP中居正広も熱烈な原ファンとして知られている。
第二次ベビーブームを直撃したカリスマ。あの頃の原辰徳は間違いなく団塊ジュニア世代の「俺らのヒーロー」だったのである。
彼らが小中学生だった83年の巨人戦平均視聴率は、歴代最高の27.1%を記録。
当時来日した助っ人選手は、日本文化で印象に残ったことを聞かれ「タクシーに乗っても、レストランに行ってもどこでも巨人ファンがいること。巨人が勝てば日本全体が幸せという感じ。あれは面白かった」と答えたほどだ。
ちなみに80年代に少年ジャンプで連載されていた超人気漫画『キン肉マン』の主人公キン肉スグルの祖父として登場するのが「キン肉タツノリ」だった。
80年代最大の等身大ヒーローだった
86年には自己最多の36本塁打を放つも左手首の有鉤骨を骨折。この頃にはチャンスでの弱さも度々指摘される。
オヤジ達は“ひ弱な若者”の象徴として4番原をディスりながらビールを飲む事で日々のストレスを発散させ、子ども達は「俺たちが奴を応援しないで誰がやるんだ」と妙な使命感に燃えてテレビの前で声を枯らして絶叫。
現役時代の長嶋や王は偉大な記録はもちろん、戦後日本の象徴のような存在なので突っ込みにくい。でも、原はもっと身近だ。いわば80年代最大の等身大ヒーローである。
正直、92年夏の神宮球場で見せた伝説のバット投げホームラン以降の原はキャリア晩年の雰囲気だった。打率.229、11本というプロ入り以来最低の数字に終わった93年のオフには、中日から落合博満がFA移籍。出場機会も激減し、アキレス腱痛にも悩まされ、95年に37歳で現役引退した。
通算1675安打、382本塁打、1093打点。名球会にも入ってなければ、400号本塁打にも届いていない。それでも、当時多くの若手投手が子どもの頃に憧れていた原との対戦に心躍らせたわけだ。
日本中が盛り上がったWBCも終わり、来週末にはペナントレースが始まる2017年のプロ野球。今の巨人に最も必要なのは、あの頃の原辰徳のように「4番サード」を任せられる若きスーパースターだと個人的には思う。
(死亡遊戯)
(参考資料)
『マウンドに散った天才投手』(松永多佳倫著/河出書房新社)
『 懐かしき外国人助っ人たち』(ベースボール・マガジン社)