「報ステ」キャスター時期には、嫌いなキャスター1位などの理由で、週刊誌などでもやり玉にあがったが、過去のアナウンサーとしてのキャリアは波乱ながらも興味深い過程だ。
「夜のヒットスタジオ」の司会へ抜擢
古舘伊知郎が、1984年にテレビ朝日を退社し、フリーアナとして一躍知られるようになった理由のひとつに、人気番組で続いていたフジテレビ「夜のヒットスタジオ」の司会へ抜擢されたからというのがある。
「夜ヒット」といえば、当時あった歌謡番組の中でもひとつ格の違う番組で、その司会者となれば、紅白歌合戦にも並ぶような誰もが知る存在になったのである。コンビ司会者となっていた芳村真理からの後押しもあって、この番組は古舘のキャリアアップのきっかけになったといえる。
古舘伊知郎の名実況
また古舘のイメージとして忘れられないものに、「ユーモア実況」がある。
もともと古舘は、実況の元祖といわれていた徳光和夫やみのもんたに憧れており、同じ立教大学に入学するほど。その熱意もあり、古舘自身も得意だと自負していたのが実況だった。
そんな実況に定評のあった古舘は、最初のテレビ朝日アナウンサー時代に「ワールドプロレスリング」の実況を担当し、「燃える闘魂」や「人間山脈」いう名言と共に、アントニオ猪木全盛時の熱狂的なプロレスファンにも馴染み深いアナウンサーとなった。
またテレビ朝日退社後は、フジテレビの「F1レース」中継の実況を担当し、モータースポーツ全盛だった時代を独自のしゃべりで盛り上げていた印象が強い。
平成屈指の紅白名司会だったが……
その後、1994年~1996年には、NHK紅白歌合戦の白組司会者を務めることになる古舘。この当時、94年・95年に紅組の司会者だった上沼恵美子との舌戦は、今でも平成の名コンビと伝えられるほどだ。
しかし、96年の紅白にも古舘と上沼でのコンビのオファーが届いたところ、上沼が断ったことがきっかけで、お互いの折合いが悪くなり不仲騒動へと発展したこともある。ちなみに1996年は、古舘と松たか子によって司会をおこなっている。
スポーツ実況や、音楽番組、バラエティ、トーク番組、紅白司会などあらゆる番組で活動しながら、時には映画やCMなどにも出演していたマルチぶりだった古舘。
だが2004年、前身番組だったテレビ朝日「ニュースステーション」を受け継ぐ形で「報道ステーション」のメインキャスターとなり、これを機にキャスター就任中は他の番組への出演はほとんどなくなった。
そんな古舘伊知郎が、昨年から再びフリーキャスターとしてバラエティ番組などに出演し、昔ながらの「古舘節」といわれるしゃべりを見せている。感情をあおるような、歯に衣着せぬその口調は、時に賛否を呼ぶのだろうが、ただスマートなだけのアナウンスではなかなか伝わりづらい視点で切り込んでゆく、古舘の往年の実況もまた見てみたい気がする。
(空町餡子)
※イメージ画像はamazonよりSWITCH Vol.34 No.12 古舘伊知郎 TALKAHOLIC しゃべくる魂 テレビ屋の反乱