このご時世でも平然とこのような“教育”が残っていることに驚き呆れた人も多いのではないでしょうか?
日本人は黒髪直毛という「優性思想」

「地毛証明書」を提出させるような頭髪に関する生徒指導の問題点としては、主に3つほどあると思います。
まず、「日本人は黒髪直毛がスタンダードなのだ」という一種の「優性思想」を信じ込み、それを教育機関が“教育”として行っていることです。今回のニュースについても、「自分も元々黒髪ではないのに、先生に疑われて傷付いた」という声がインターネット上で散見されました。
「染毛やパーマという生まれたままの状態に手を加えることがいけないのであって、地毛であれば問題ではない。だから証明書を提出させているのだ」という理屈なのかもしれませんが、では地毛が茶髪の人が黒に染めたり、天然パーマの人が縮毛矯正をすれば、同じように学校から生徒指導や校則違反の対象として注意されるでしょうか?
おそらくそんなことはほとんど無いでしょう。同じように染めて地毛の色ではなくなっているはずなのに、茶髪になった場合だけ怒られて、黒髪になった場合は怒られない。直毛からパーマにするのは怒られるのに、天然パーマやくせ毛から直毛にするのは怒られない。そこに「黒髪直毛こそ日本人のあるべき姿」という「優性思想」が存在するわけです。
これは差別的価値観以外の何ものでもありません。イジメや差別は「あるべき姿」が存在することから生まれることが多いですが、そのような社会の偏見を教育機関が作り出してしまっているわけです。もしそれを自覚すらできていないのであれば、教育に携わる上で非常に問題だと思います。
いつまでヤンキーの亡霊に怯えているのですか?
次に、外形で評価することが適切な倫理観の形成を阻害するという点が、頭髪に関する生徒指導の2つ目の問題点です。仮に染毛やパーマで地毛ではなかったとしても、いったい何の問題があるというのでしょうか?
非行に走る若者が減少傾向にある中で、染毛と非行の相関関係自体もかなり弱くなっています。確かに「割れ窓理論(軽微な犯罪も徹底的に取り締まることで、凶悪犯罪を含めた犯罪を抑止できるとする環境犯罪学上の理論)」という発想も、昭和の時代であれば分からなくもなかったと思います。
ですが、それは不良やヤンキーがたくさんいた昔の話です。「染毛=風紀の乱れ」「頭髪に手を加えていない=真面目な生徒」という方程式をいまだに信じているのであれば、時代感覚が古過ぎると言わざるを得ません。
ちなみに、陳腐化しつつあるルールとして最近指摘され始めたものとして、暴力団排除を目的としたプールや温浴施設での「タトゥー禁止」も該当するでしょう。グロバール化が進む中、ファッションとしてのタトゥーをする人や外国人観光客も増えているのに、いまだに「タトゥー=暴力団」という発想になっているのは、やはり古いと感じてしまいます(もちろん暴力団対策は今以上に必要だと思います)。
頭髪指導は教育ではなく大人による管理
そもそも、日本社会で発生する犯罪の中で、染毛している犯罪者はどれほどいるでしょうか? オレオレ詐欺をするグループも、痴漢の加害者も、会社のお金を横領する人も、政治資金規正法に違反する政治家も、児童買春する人も、皆染毛している人が多数派でしょうか? そんなことはありません。その多くが黒髪です。
本当に必要なことは、子供たちのために彼等が犯罪や社会悪に走るのを防ごうという視点であり、それを防止するための実践的な教育や倫理観の育成のはずです。ですが、生徒指導というのは、本質的なところには切り込まず、単に見た目ジャッジをして善か悪かを峻別しているだけ。
それは、結局のところ、「子供たちのことを考えていない」ということの表れのように思うのです。つまり、あくまで大人が描くあるべき高校生像を強要しているだけ。もはや「教育」ではなく、「管理」という表現が的確でしょう。
ウワベの頭髪指導はブラック企業にも通じる

一方で、生徒指導を受けてルールを守った子供たちは何を学ぶのでしょうか? 彼等は決して、「非行に走らないこと」を学ぶわけではありません。あくまで「取り繕うことの重要性」「とりあえずパフォーマンスをしておけば良いというウワベを重視する社会に迎合すること」を学ぶのです。
これでは、空気は読むことや長い物には巻かれることに長けるだけで、適切な倫理観が習得できていないため、善悪の判断がつかないままです。
このような思考停止に皆が陥ると、たとえトップが悪かろうが、「これがルールだから」という論理がまかり通ってしまうので、組織全体が毒されるということに繋がります。電通の過労死事件に見られるようなブラック企業の体質が日本でこれほど蔓延るのも、そのような「人権的に間違っているか否かよりもコミュニティ内のルールに従っているか否かが大事」という日本的秩序観が生んだ悲劇ではないでしょうか?
頭髪指導と長時間労働の深い関係
私は今回のニュースを見た時に真っ先に感じたのが、頭髪で善悪をジャッジするような子供を見る目の無い先生や保護者は、仕事の成果よりもひたすら残業していることを「あいつは頑張っている」と良い人事評価をしてしまうような部下を見る目の無い上司と全く同じだということでした。
どちらの事例も、他人を評価する際に極めて表面的な面だけで判断してしまっているわけですが、この「他人を見る目の無さ」はもはや日本人の中に根強く染みついてしまっているように思います。たとえば、一部の男性が合コンでサラダを取り分ける女性を「気が利く」と判断してしまうこと等も同様でしょう。
このような他者評価を日本人がしてしまう傾向にあるのは、もちろん自分自身が幼い頃からそのような他者評価を大人から受けてきたからと考えるのが妥当でしょう。であれば、真っ先に教育課程において、「見た目で判断する愚かな評価方法」をやめるべきではないでしょうか?
教育者による不信が子供の自己肯定感を奪う

3つ目の問題点は、頭髪に関する生徒指導が子供の自己肯定感を奪っているという点です。「地毛なのに先生に疑われて辛かった」という例が散見されるように、生徒指導をする先生たちの中には、子供たちを疑ってかかる人も少なくないのでしょう。証明書の提出を求めるということも、子供に対して「不信」という矛先を向けているのです。
不信の目を向けられて育てば、信頼関係も大人に対するリスペクトも生まれないですし、自己肯定感が育まれるわけがありません。日本人は自己肯定感が低いと言われますが、それはこのような教育者(親等子供に接する大人全てを含む)の態度も要因の一つではないでしょうか?
また、不信感情を抱いていると、監視の時間がより多く必要になります。仕事でもそうですが、部下を信じていない上司ほど、部下に大量のホウレンソウを求めて業務量を無駄に増やすということが少なくありません。
これは生徒指導にも言えることです。子供たちを信用していないから、生徒指導という無駄な時間を費やしてしまう。
「美容室黒染め証明書」もある
最後に私の個人的な話をさせてください。15年以上前とかなり古い話になりますが、日本の教育観がその頃からまるで進歩していないようなので、依然として「過去の話」ではないと思います。
私が通っていた私立高校も生徒指導に関して原則的に厳しい高校でした。朝の登校時間帯には校門の前に先生が立って、生徒指導に“熱心な”先生が担当の時は検問のごとく一網打尽にされ、酷い場合は美容室送りにされます。美容室に行って黒染めしたという証明書の提出を求められるという事例もありました。
そんな中、当時の私も「髪の毛を染めてオシャレをしたい」と思っていたので、学校側とぶつかることが非常に多かったです。朝の検問に引っかからないようにするために、必ず遅刻して登校するようにしていました。
確かに「髪を染めたいと思っているのに生徒指導の厳しい学校を選んだ自分が悪い」と思われるかもしれませんが、受験前に見た先輩の中には髪を染めたり、ピアスしたり、メイクしている人もいたのです。ところが、入学してから「コースや担任の先生によっては例外的に甘いだけ」というのが実態だったことに気が付かされます。言わずもがなそんな情報は入学前から知ることはできません。
頭髪に関する高校時代の3つのエピソード
もちろん、私の対応が思春期的で、必要以上にぶつかったということもあるでしょう。ですが、今大人になって改めて考えても、教育的に問題と感じることも少なくありませんでした。
たとえば、「全校生徒合同英単語テスト」が年2回開催されていたのですが、私が全校1位を獲得しても、「お前は見た目がそんなだから壇上には上げさせない」と言われ、表彰式の会場にいるのに「1位の勝部は欠席です」とアナウンスされました。
これらは、生徒指導に関して厳しい先生の目に入るのをなるべく避けるという担任の先生による私への配慮という側面もあったと思うのですが、自分たちの望むべき生徒像だけを公に並べて悦に浸っている学校全体の姿勢には、「この学校はいかに良い教育をするかではなく、いかに自分たちが良く見られるかばかり関心があるのだろう」と子供心ながらに感じたことを覚えています。
また、3年生の終わりには染めるのも飽きて、髪の毛の大半が地毛になっていたのですが、卒業式の前に「髪が茶色い!」と指摘されました。「元々そこまで真っ黒ではないので」と反論すると、「お前はこれまで髪の毛を染めていたのだから、生えてくる地毛が元の黒ではなくなったから黒く染めなくてはならない!」という非論理的な理由で、担当の先生に無理やり黒染めスプレーを吹きかけられました。
「それならば大学生の時に染めたことある先生全員に黒染めスプレー吹きかけてくださいよ」と反論すると、まともに討論することを諦めたのか、「染めろ!でなければ式には出させないぞ!」の一点張り。
抵抗し続けて、かろうじて式には遅刻して出席できたのですが、会場に入った途端、先生たちの間から「え、あいつ卒業できるんだ…」というヒソヒソ声が聞こえました。今、大人になって思うのですが、たとえどんな生徒であっても、そのような言葉を卒業式という場で平気で生徒に向けられる神経が人として信じられません。
さらに、学校に卒業生が遊びに来ることも珍しくなかったのですが、「勝部、(行儀の悪くてチャラい)お前が来ると後輩への悪影響になるから来るな」と言われていました。ところが、それまでその高校から数えるくらいしか進学していなかった早稲田大学に進学することが決まったら、「いつでも来いよ」と態度を一変させるわけです。
これからの子供たちのために私たちができること
もちろん先生に対して一部には恩を感じることもありましたが、やはり思春期に受けたこれらの「大人に対する失望」はいまだに忘れることはありません。私は紆余曲折ありながらも、完全な非行に走らずには済みましたが、もし子どもが本格的にグレるとすれば、それは子供に対するこのような大人の態度が原因ではないかと改めて思うのです。
そして自分が大人になった今では、絶対に子供たちにそのような態度は取らないと心に決めています。また、少しでもそのような態度を取ってしまう大人がこの社会から一人でも減るように、日本の教育に対して外から批判の声をあげ続けたいと思っています。
なお、今回は学校や教師の問題として取り上げましたが、生徒指導を厳しくするよう彼らに求める保護者や世間がいることも忘れてはなりません。ですから、教育機関に対して直接的に声をあげなくても、「日本の教育はおかしい」と表明することはとても意味があることです。もし同じように感じてくださる方がいましたら、是非一緒になって声をあげて頂けると幸いです。
(勝部元気)