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ジャンプ女子トイレ炎上、なぜセクハラは繰り返されるのか?【勝部元気のウェブ時評】

ジャンプ女子トイレ炎上、なぜセクハラは繰り返されるのか?【勝部元気のウェブ時評】
ジャンプ 「すすめ!ジャンプへっぽこ探検隊!」第3話掲載中止のお知らせページからキャプチャ

「少年ジャンプ」(集英社)のウェブサイト「ジャンプ+」が、編集部の女子トイレのピクトグラムを性的なイラストに変更するという企画のコミックエッセイを掲載したところ、セクハラに該当するという声がインターネット上で巻き起こり、炎上。

「女性が見える場所に掲げることは問題だ」「セクハラを娯楽にするな」等の批判が相次いだことで、掲載を中止するということが起こりました。




ジャンプの女子トイレは男性にとってもセクハラだ!


エッセイを読んだ人は分かると思いますが、完全にセクハラに該当する内容であり、批判をされて当然のものだと私も感じました。ただし、その一方で、「女性」を被害者にしたような批判には疑問を感じます。果たして女性の目に触れさえしなければ許される行為なのでしょうか?

もちろん違います。女子トイレの前に性的なイラストを掲げることは、女性へのセクハラはもちろんのことですが、男性にとっても明らかなセクハラだからです。見る人が男性社員のみであろうが、一般的な職場で同じことをすれば、男性でも不快に感じる人はたくさんいますから、性別は関係無く環境型セクハラに該当するでしょう。

それに対して、今回のエッセイを擁護する人の中には、「男なのに性的に描写した女性のイラストを不快に感じるなんて性嫌悪なのでは?」「性に厳格な昔の人みたいにけしからんと思っているのでは?」という推測をする人もいるかもしれませんが、不快に感じるのは決して性嫌悪だからでも、「けしからん!」と思うからでもありません。

(1)内容がただ性的なだけではなく性搾取的だから。

(2)そのような加害性のあるものを楽しいと感じて仲間内で盛り上がるノリが、非人道的な「ホモソーシャル(=ミソジニー(女性嫌悪)かつホモフォビア(同性愛嫌悪)な男性同士の強い親愛・連帯関係)」だから。

(3)そのようなノリが社会的にもスタンダードで、他者も受け入れられて当然という雰囲気をエッセイから感じるから。

(4)「性的な気分になるタイミングは自分で決める」という自己決定権を侵害されているから。


という理由で不快なのであって、基本的には女性が不快になる理由と同じです。これらの要素こそ、今回のエッセイがセクハラに該当する本質的な理由だと思いますし、これらを分かっていないからセクハラ炎上案件が度々起こるのではないでしょうか?



セクハラは「エロ」ではなくただの「搾取」


まず、性搾取であるポイントは実際にトイレに性的なイラストを掲げた点です。トイレはあくまで排泄する場であるにもかかわらず、「僕たちは女子トイレを性的なものとして回収します(≒見なします)」ということを、自分たち以外の他者の目にも入る場所で表明したことがアウトと言えるでしょう。実際に女性が利用するか否か、女性の目に触れるか否か、イラストを見た人が女性か男性かは一切関係ありません。

もちろん女性の排泄行為やイラストで描かれたような女性の脱衣行為を、一部の異性愛の男性が性的なものとして捉えることもあるというのは、私自身も異性愛男性の一人として十分理解できます。

ただし、自分自身の排泄行為や脱衣行為が性的ものとして捉えていないように、排泄行為や脱衣行為というのは日常生活の一部であり、性的なニュアンスではない行為というのがベースとしてあるべきです。ところが今回のエッセイはそのような他人の日常生活に対して、勝手に「性的なもの」というレッテルを公の場で張ったわけですから、「搾取」に該当すると考えられます。

換言すれば、「排泄行為や脱衣行為をエロと捉えること」自体が問題なのではなく、他人のトイレに性的なイラストを掲げたことによって、「エロではない排泄行為や脱衣行為を全面的に否定したこと」が問題であり、それゆえ「性的」ではなく「性搾取的」なのです。

一方で、今回の件についてインターネット上で「ヘテロ(異性愛)男性のエロ」という論拠で批判をしている人を何名か見たのですが、その指摘は間違いです。「異性」でもなければ「愛」でもなければ「エロ」でもありません。彼等が対象としているのは「異性」という自分と同じ人間ではなくて、「記号、肉、モノとしての女体」ですし、「愛」でも「エロ」でもなく「搾取」ですから。

常日頃から繰り返し申していることですが、「相手が嫌がると萎えるのが性欲」であり、「相手が嫌がっていても気にならないのが性暴力欲」です。「男性のエロ」だから批判するのではなく、しっかりと暴力性や加害性に焦点を絞って批判を展開するべきでしょう。

なお、誤解する人も多いので断っておきますが、私は決して女性の味方をしているわけではありません。誰か特定の人々を性的に搾取するということは、それ自体が反社会的行為であり、その対象が女性であろうと誰であろうと関係無く、許される行為ではないと思うから批判しています。



バカ騒ぎしたいだけの「エロフーリガン」


エッセイは加害性の有するものであるにもかかわらず、その中で登場する作者と編集者の2名はホモソーシャル特有の幼稚な内輪ノリを展開しました。セクハラのエンタメ化です。私には加害性を有することを楽しいと感じる神経が信じられません。

確かにイラストで描かれたような女性の脱衣行為を、一部の異性愛の男性が性的な興奮を覚えることもあるというのは十分理解できます。ですが、エッセイに登場する2名の反応は、どう見ても「性的なものに対する興奮」とは思えませんでした。ただ、仲間内で盛り上がっているだけ。

サッカー日本代表が勝利した時等にバカ騒ぎをして道頓堀にダイブするという人はいまだにいるようですが、多くの人が「彼等は本当にサッカーというスポーツが好きなのではなくて、サッカーをネタにただバカ騒ぎしたいだけ」と感じていることでしょう。それと同じで、エロをネタにバカ騒ぎしているような人たちというのは、本当にエロが好きなわけではないと思うのです。ようするに「エロフーリガン」です。

また、インターネット上では、「ノリでふざけているだけだからそんなに目くじらを立てなくても良いだろう」という反論をする人も多々いました。ですが、セクハラをふざけだと主張することは、イジメをふざけだと主張することと構造が全く同じです。

他人を加害する意志が加害者にあったか否かは、セクハラかイジメかを決定する上で関係ありません。にもかかわらず、「あくまでふざけであってセクハラの意志は無い!」と主張している時点で、いかにセクハラというものを理解していないかの表れと言えるでしょう。

ちなみに、ジャンプが雑誌のコンセプトとして掲げている「友情・努力・勝利」は、一般的には賞賛されるものではあるのですが、ホモソーシャルの文脈に乗っかることで、女性を支配することで生まれる男同士の友情だったり、被害妄想と非モテコンプレックスをこじらせて女性にリベンジする努力だったり、ハーレムを形成して女性を支配する勝利になることが少なくありません。

実際、今回イラストを描いた矢吹健太朗氏の出世作『BLACK CAT』は面白かった記憶があるのですが、次作の『To LOVEる -とらぶる-』は女性の性を搾取するようなシーンの目立つハーレム漫画で、大変失望した記憶があります。「何だよ、ジェンダー的にはクリード(BLACK CATに登場する狂気染みた悪役)じゃないか!」と感じました。


セクハラする人はだいたいセックスが下手


インターネット上で溢れていたエッセイ擁護派の意見には、「内輪で盛り上がっているだけだから、外野がごちゃごちゃ言うほうがおかしい!」「不快ならば見なければ良いだろう!」という声も多々ありました。ですが、本当に内輪の中だけで済んでいることなのでしょうか?

同人誌の即売会のように、人目のつかない場所でこっそりとしていることではありません。出版部数が日本でも屈指の漫画雑誌を出版する大企業が制限を設けずに公表し、公式認証マークの付いたTwitterアカウントで宣伝している時点で、非常に公共性が高いものと判断して当然でしょう。それを内輪の中と捉えるならば「自他境界」が著しく歪んでいると言えます。

たとえるならば、人目のつくところで他人にマスターベーションを見せて、「見るほうが悪い!」と言っているようなものです。見たくもない他人のマスターベーション姿を想像すれば、いかにあれが気持ち悪いことか実感して頂けるのではないでしょうか。

ちなみに、相手が何を不快と感じるかを理解できない、または理解しようとしないというのは、人とセックスをする際において最もアウトなことの一つですよね。今回のエッセイを擁護している人たちの「他人の不快に対する鈍感さ」を見ていると、「この人たち、セックスが下手そう…」という余計な推測をしてしまうのですが、ひたすら自己の身勝手なエロを社会にも受け入れさせようとする姿勢を見ていると、それもある程度妥当性があるように思ってしまいます。



性的自己決定権とはオンオフの自由である


これまでの論考で何となくお分かり頂けたかと思いますが、性的な自己決定権とは、「いつ、どこで、誰と、どのようにして自分が性的な気分・状態になるかは自分自身で決めることができるものであり、他の誰かによって侵されてはならないもの」です。つまり、オンオフに関して決定する権利があるということ。

トイレの前に性的なイラストを掲げるということは、このオンオフの自由を侵害するものであり、それゆえ「性的自己決定権」の侵害に当たります。だから、見る人が男性でも女性でもセクハラに該当するのです。

また、不快に感じるか否かは、その人の性的な関心度とは一切関係がありません。性的な関心度が高い人であっても、オンオフを自分で決めるのが当然であり、オフを選択する自由を侵害されれば不快を感じるのはごく自然なことです。

たとえば、とある女性社員が性的に関心の高いという噂を聞いて、男性社員が「性的な話をしても大丈夫だ!」と勝手に思い込み、実際に話したらドン引きされるという事例を何度か聞いたことがありますが、これも同じ構造です。

性的に関心が高い人だとしても、「自分がそういうテンションでは無い時に(when)、自分が許容していない人とは(who)、性的な話をしたくない」ということが当然のようにあるわけですが、それを理解できていないために起こりうる悲劇と言えるでしょう。


「女性に配慮すべき!」ではセクハラは無くならない


以上、4点がこのエッセイがセクハラに該当する理由であり、他人に不快感を与えているポイントです。

一方で、彼等のことを批判する側も、「女性への配慮ができていない」ということを批判の論拠にしてはいけないと思うのです。というのも、彼らは「男の性欲とは性搾取的で、男はホモソーシャルなノリを楽しみ、パブロフの犬のごとく記号的なものにいつでも嬉々として反応するものだ」という、「歪んだ男性観」を抱いているからです。

そのような中で、被害者を女性に限定すれば、男女二項対立に陥ります。そうすると彼らは、「男はこういう生き物だから仕方ないでしょ!」と思い、炎上で批判を受けて作品が取り下げられれば、「女の意見が通った。俺たち男は我慢を強いられている」という被害者思考しか抱かなくなる。「セクハラにおける不快の本質」が全く見えていないわけです。これこそがセクハラがなかなか無くならないネックの一つになっているのではないでしょうか?

本当にセクハラを無くすためには、彼らが抱いている歪んだ男性観自体を否定しなければなりません。「女性に配慮するべき!」ではなく、「あなたたちの考えは男としておかしいですよ!」「人としておかしいですよ!」という指摘が絶対に不可欠です。
(勝部元気)
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