
『X-MEN』は「ミュータント」と呼ばれる、特殊能力を持つ突然変異の人々が集まったヒーローチームの物語。彼らの活躍とともに、ミュータントを差別する「普通の人々」との軋轢や葛藤も描いたシリーズである。ウルヴァリン(本名というか、通称がローガン)はそんなX-MENを代表する人気キャラクターだ。ウルヴァリンの能力は強力な治癒能力であり(手の爪は後から改造手術でつけられたもの)、その効果によって彼は普通の人間よりずっと長生きをしている。そんなキャラクターを2000年の『X-MEN』以来17年に渡って演じてきたのがヒュー・ジャックマン。『ローガン』は彼がウルヴァリン役から引退する作品となる。
『X-MEN』だから実現した異端の一作
舞台は世界からミュータントが駆逐された近未来。数少ないミュータントの生き残りとなったウルヴァリン=ローガンは、リムジンの運転手をしながらひっそりと生き延びていた。しかしそんな彼も骨格に植えつけられたアダマンチウム(めっちゃ硬い金属)の副作用によって治癒能力が弱まり、確実に老いが忍び寄っている。
かつて地上最強のテレパスだったが、今はアルツハイマーを患っている老境のプロフェッサーXをメキシコに匿いつつアメリカ最南部で細々と暮らすローガン。そんな彼の元に、ある少女をカナダとの国境に近いノースダコタ州に運んでほしいという依頼が寄せられる。「X-23」と番号で呼ばれるその少女は、ローガンと同じ手の甲から飛び出る爪を持つミュータントだった。依頼を拒否するローガンだったが、武装した男たちが少女を追跡してきたことからなし崩し的に北を目指すことに。
映画版『X-MEN』シリーズは、正直体裁の整った作品ではない。スーパーヒーロー映画のフォーマットができるずっと前のタイミングで作られたことから、各部の設定はちぐはぐ。おまけに外伝を作ったり過去に戻って歴史改変したりで、熱心なファンでもなければどの作品がどの作品に繋がっているかもわからない。しかし、そんな場当たり的なシリーズだったからこそ、『ローガン』の製作が可能になったとも言える。
なんせこの『ローガン』には、スーパーヒーロー映画らしい部分はほとんどない。派手なコスチュームも登場しないし、空を飛んだりビームを撃ったりもしない。主人公ローガンの特殊能力と言えば手から爪が出て、傷の治りが早いくらい。しかも壮年を迎えて体もうまく動かず、車上荒らしのチンピラを撃退するのにも一苦労する始末。ほとんど「ちょっと喧嘩ができる普通のおっさん」である。
そんな孤独なおっさんが、少女とボケ老人を連れて渋々アメリカを縦断する。ピックアップトラックに少女を乗せて荒野を延々移動し、時たま息を切らしながらボロボロになって戦うヒュー・ジャックマン。こんなスーパーヒーロー映画らしからぬ絵面の作品が実現したのも、『X-MEN』が場当たり的で「なんでもあり」なシリーズだからではないだろうか。
ヒーロー映画でありつつ、アメリカ文学的風格も
『ローガン』は一筋縄ではいかない作品だ。長すぎる時間を生き多くの敵を殺してきた男の、諦念と贖罪が入り混じったやるせない映画である。ミュータントと人類が共存できるかもしれないという理想を追ったX-MENの試みは潰え、かつての仲間たちは皆いない。そして自分だけ死ぬことができない。ローガンは自分を撃ち殺すことのできるアダマンチウムの銃弾を持ち歩き、それだけを拠り所にする。
そのローガンの元に同じく行き場のない少女が現れるわけだけど、「少女と孤独な男の心の交流」みたいな生ぬるい要素はほとんどない。少女に対しひたすらドライに接するローガン。少女は少女で別にベタベタしたりしない。そして目の前には荒れ果てたアメリカ中西部の風景がどこまでも広がる。死を渇望する男と獣のような少女が荒野を彷徨う。ほとんどボストン・テランというか、ある種のアメリカ文学のようなざらついた手触りのある映画なのだ。
映画は最終的にある結論に到達して終わる。
(しげる)