「平成の明石家さんま」
なんと、キャッチーな触れ込みでしょうか。しかし、この触れ込みに見合った継続的な活躍ができず、ついには芸能界から姿を消した『ぜんじろう』という人気芸人がいたこと、あなたは覚えているでしょうか?
ぜんじろうこと金谷善二郎。彼の師匠は上岡龍太郎でした。
高校卒業後、大学に通うわけでも働くわけでもなく、怠惰な生活をしていたぜんじろうは、大阪で友人と遊んでいるときに、上岡とバッタリ出くわします。
ぜんじろうと友人はこの上岡を浜村淳と勘違いし、2人してジロジロ見ていると、上岡は「君ら、僕と握手したいんか?」と自ら歩み寄ってきたとのこと。
その後、またも偶然出くわしたぜんじろうと上岡。「これは何かの縁やな」と上岡にお茶へ誘われたぜんじろうは、極度の緊張の中、ウケを狙って「弟子にしてください!」と発言。すると上岡は「ええよ」とあっさり快諾。かくしてぜんじろうは、芸人の道を歩むこととなるのです。
その後、弟子修行⇒ピンでデビュー⇒コンビ結成⇒コンビ解散を経て、再びピン芸人となったぜんじろう。
この時、20代前半で、メインの仕事は深夜ラジオのみ。加えて、心斎橋筋2丁目劇場のステージにも度々上がっていたものの、当時はダウンタウンとその一派目当ての客ばかりで、何をやってもウケなかったといいます。
この不遇時代に感じた、客への怒りから『しねしね団』というコントユニットを結成。
同ユニットは後にナインティナイン・雨上がり決死隊を輩出した『吉本印天然素材』へと発展していくのですが、当の発足人・ぜんじろうはアイドル的な売り出し方が気に入らず、わずか3ヶ月ほどで脱退してしまいました。
転機となったのは、毎日放送のテレビ番組『テレビのツボ』への出演。
超低予算だったという同番組において、破格の安いギャラで起用されたぜんじろうは、司会者として抜群の働きをして見せます。
コスパ抜群で場回しの上手い、このさんまとよく似た若手芸人が、関西のテレビ業界から放っておかれるはずありません。こうしてぜんじろうは、瞬く間に関西でレギュラー番組10数本を抱える、超売れっ子芸人となったのでした。
もしかしたら、このまま関西に残っていたほうが、彼にとっては幸せだったのかも知れません。しかし、ぜんじろう自身、師の上岡や先輩のダウンタウンが東京で活躍している姿を見て、全国区のタレントとなることに魅力を感じていたのでしょう。
かくして1995年より、ぜんじろうは東京進出を果たします。『超天才・たけしの元気が出るテレビ!!』へレギュラー出演し、さらには『ぜぜぜのぜんじろう』という看板番組を持つなど、はじめのうちは順風満帆でした。
けれども、勢いはあっという間に失速し、90年代後半以降、ぜんじろうはテレビから姿を消します。彼はなぜ東京で成功しなかったのでしょうか?
「(東京のテレビ関係者から)求めていただいていることが出来なかった」
ぜんじろうは、自身が消えた原因をこう分析しています。たしかに、東京のテレビマンにとって、ぜんじろうは未知の存在。単純に、扱い方が分からなかったというのも一因としてあるでしょう。
逆にいえば、扱い方を熟知してくれる良き理解者が事務所やテレビ局にいてくれれば、また状況も変わっていたのでしょう。
今では、ネタづくりから放送まで、全てを自分で手掛けるインターネット番組『zenjiro show!』の配信に力を入れているぜんじろう。
(こじへい)
なんと、キャッチーな触れ込みでしょうか。しかし、この触れ込みに見合った継続的な活躍ができず、ついには芸能界から姿を消した『ぜんじろう』という人気芸人がいたこと、あなたは覚えているでしょうか?
運命的だった師匠・上岡龍太郎との出会い
ぜんじろうこと金谷善二郎。彼の師匠は上岡龍太郎でした。
2人の出会いはちょっとドラマチックです。
高校卒業後、大学に通うわけでも働くわけでもなく、怠惰な生活をしていたぜんじろうは、大阪で友人と遊んでいるときに、上岡とバッタリ出くわします。
ぜんじろうと友人はこの上岡を浜村淳と勘違いし、2人してジロジロ見ていると、上岡は「君ら、僕と握手したいんか?」と自ら歩み寄ってきたとのこと。
その後、またも偶然出くわしたぜんじろうと上岡。「これは何かの縁やな」と上岡にお茶へ誘われたぜんじろうは、極度の緊張の中、ウケを狙って「弟子にしてください!」と発言。すると上岡は「ええよ」とあっさり快諾。かくしてぜんじろうは、芸人の道を歩むこととなるのです。
『吉本印天然素材』の前身『しねしね団』を結成
その後、弟子修行⇒ピンでデビュー⇒コンビ結成⇒コンビ解散を経て、再びピン芸人となったぜんじろう。
この時、20代前半で、メインの仕事は深夜ラジオのみ。加えて、心斎橋筋2丁目劇場のステージにも度々上がっていたものの、当時はダウンタウンとその一派目当ての客ばかりで、何をやってもウケなかったといいます。
この不遇時代に感じた、客への怒りから『しねしね団』というコントユニットを結成。
同ユニットは後にナインティナイン・雨上がり決死隊を輩出した『吉本印天然素材』へと発展していくのですが、当の発足人・ぜんじろうはアイドル的な売り出し方が気に入らず、わずか3ヶ月ほどで脱退してしまいました。
一時期は関西でレギュラー番組10数本を抱える
転機となったのは、毎日放送のテレビ番組『テレビのツボ』への出演。
超低予算だったという同番組において、破格の安いギャラで起用されたぜんじろうは、司会者として抜群の働きをして見せます。
そのまくしたて気味のしゃべり方と、年齢の割にしゃがれたハスキーな声、そして出っ歯で細見の風貌は、どこからどう見ても、明石家さんまの焼き直し。
コスパ抜群で場回しの上手い、このさんまとよく似た若手芸人が、関西のテレビ業界から放っておかれるはずありません。こうしてぜんじろうは、瞬く間に関西でレギュラー番組10数本を抱える、超売れっ子芸人となったのでした。
日テレの看板番組も持っていたぜんじろう
もしかしたら、このまま関西に残っていたほうが、彼にとっては幸せだったのかも知れません。しかし、ぜんじろう自身、師の上岡や先輩のダウンタウンが東京で活躍している姿を見て、全国区のタレントとなることに魅力を感じていたのでしょう。
かくして1995年より、ぜんじろうは東京進出を果たします。『超天才・たけしの元気が出るテレビ!!』へレギュラー出演し、さらには『ぜぜぜのぜんじろう』という看板番組を持つなど、はじめのうちは順風満帆でした。
ぜんじろうが東京で成功しなかった理由
けれども、勢いはあっという間に失速し、90年代後半以降、ぜんじろうはテレビから姿を消します。彼はなぜ東京で成功しなかったのでしょうか?
「(東京のテレビ関係者から)求めていただいていることが出来なかった」
ぜんじろうは、自身が消えた原因をこう分析しています。たしかに、東京のテレビマンにとって、ぜんじろうは未知の存在。単純に、扱い方が分からなかったというのも一因としてあるでしょう。
逆にいえば、扱い方を熟知してくれる良き理解者が事務所やテレビ局にいてくれれば、また状況も変わっていたのでしょう。
今では、ネタづくりから放送まで、全てを自分で手掛けるインターネット番組『zenjiro show!』の配信に力を入れているぜんじろう。
以上のような経歴から、近々『しくじり先生』に出演しそうな予感ですが、果たして……。
(こじへい)
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