ヤクルトに入団したラミレス、獲得の経緯は?
選手時代の誰からも愛されるラミちゃんから、切れ者監督ラミレスへの華麗なる転身。90年代後半、若かりし頃のラミレスはメジャーでも将来を嘱望された選手だった。
元ヤクルト国際スカウト中島国章氏は自著『プロ野球 最強の助っ人論』(この本はめちゃくちゃ面白いのでぜひ読んでみてほしい)の中で獲得の経緯を明かしているが、最初は所属のインディアンス関係者から「この選手は出さない」と断言されたという。
だが、ある日、スカウティング目的でキャンプ視察に通う中島氏に対して、ラミレスの方から笑顔で声をかけてくる。
見ず知らずの東洋人に対して異様にフレンドリーなその性格。人呼んで“ベネズエラ生まれの世界一性格のいい男”。これが例えばチャンスに恵まれず日本行きを希望する中堅マイナーリーガーなら、自分を売り込む目的も兼ねて挨拶して来るのも分かる。
だが、当時のラミレスは98年にインディアンス傘下の3Aバッファロー・バイソンズで打率.299、34本、103打点の成績を残し、9月にはメジャー昇格した23歳の有望若手選手だ。いったいなぜそんなプロスペクトが自分に興味を持つのか? 日本が好きなのか? なんかこいつとは気が合うな。その記憶が数年後のラミレス獲得に繋がっていくことになる。
ラミレスと獲得を迷ったあの大打者
2000年シーズン途中、ラミレスがパイレーツへトレードされ、新天地のある試合で落球してから首脳陣の信頼を失い干されていると情報を得た中島氏は、ここぞとばかりにラミレス獲りへ動く。
だが、もう一人。独自のルートからダイヤモンドバックスのマイナーに規格外のパワーヒッターがいることを知り悩む。正直、ふたりとも欲しい。けど、当時のヤクルト助っ人にはあのロベルト・ペタジーニがいた。
日本に連れて行くのはどちらかひとり、そして中島はそのパワーヒッターが「ちょっとわがままでキレやすい」と聞いて、だったら自分にいつも笑顔で挨拶してくれた性格的にも明るいラミレスをと決断するわけだ。
ちなみにそのもう1人のとんでもないパワーヒッターというのは、直後に西武入りするアレックス・カブレラである。
日本では1年だけプレーする気だったラミレス
とはいっても、ラミレスも最初は日本では1年だけプレーしてアメリカへ戻る気だった。
自著『ラミ流』の中で、前の年にフロリダに家を買ったばかりで月々のローン(ついでに2台の車のローンも含む)が残っていて、当時の年俸では払いきれなかったとリアルなカミングアウト。「だから、日本でプレーしたら、この家のローンも車の残金も払えるよ」と奥さんを説得する。
その後13シーズンに渡りヤクルト、巨人、DeNAとNPB3球団を渡り歩くラミレスのキャリアを考えると意外だが、思いっきりお金のため“1年のビジネス”と割り切っての来日だ。
当時まだ26歳。1年でアメリカに戻ってもいくらでもやり直しがきく。
気が付けば、その短期バイトの青年は、やがて正社員となり、圧倒的な数字が評価され転職、出世街道を驀進して、ついに社長に成り上がったみたいなラミちゃんの01年から続く日本球界サクセスストーリー。ちなみにあの来日の大きな動機になったフロリダの家はすでに売ったという。
まだ巨人在籍時の09年夏に出版した『ラミ流』の最終章では、現役時代から真剣に日本で監督になることを考えていたと書くラミレス。8年前、自ら挙げたその目指すべき理想の監督像は、まさに現在のDeNA監督アレックス・ラミレスの姿そのものである。
「もし僕が監督だったら、チームの一体感を大切にしたい。若手選手にチャンスを与え、彼らの可能性を伸ばすような指導をしたい。と同時に、ベテラン選手には常にその若手たちと競争できるよう、コンディションを保ってもらう。日本での僕の経験を生かせば、僕は結構いい監督になれる自信があるよ」
(死亡遊戯)
(参考資料)
『ラミ流』(アレックス・ラミレス/中央公論新社)
『プロ野球 最強の助っ人論』(中島国章/講談社現代新書)