かつて、巨人に甲子園のヒーローたちが集結していた時代がある。

江川卓、定岡正二、原辰徳、水野雄二、元木大介、松井秀喜、あの王貞治や柴田勲も甲子園の優勝投手だ。


そして、今回取り上げる帝京高校出身の吉岡雄二も89年夏の甲子園優勝投手にして、高校通算51本塁打のスラッガーだった。
最近の野球ファンには『とんねるずのスポーツ王は俺だ!!』のリアル野球BAN企画で、石橋貴明率いる帝京チームの一員として、現役選手顔負けの打球を次々とかっ飛ばす白髪の温厚そうなおじさんというイメージが強いかもしれない。

投手から打者へと転向


甲子園優勝校の4番エース。89年ドラフト3位で巨人から指名を受け、当初は投手としてスタートするも、入団早々右肩を手術して2年間はリハビリ期間。復帰後は1年だけ投手をするも、プロ4年目の92年シーズンオフから打者転向。

身長189cmの大型スラッガーは、「右の吉岡、左のゴジラ松井」と元甲子園のヒーローコンビとして球団からも期待される。できたばかりのFA制度でレギュラー1塁手の駒田徳広が移籍した93年オフには、その背番号10が吉岡に継承されるほどだった。
94年にはイースタンリーグで22本塁打、72打点と二冠獲得(当時のイースタンのシーズン最多安打記録も更新)。ちなみにこの90年代中盤の巨人2軍成績を確認すると、完全に吉岡雄二と大森剛の“YO砲”時代である。

“2軍の大砲”だった吉岡雄二


以前、本連載の『90年代のプロ野球で最もツイてなかった男』でも取り上げたが、92年には大森が当時イースタン新記録となる27本塁打、69打点で二冠獲得。翌93年も18本塁打で2年連続のキングに輝く。
そして、94年は前述の通り吉岡が二冠。すると負けじと96年は、大森が25本塁打で3度目のイースタン本塁打王、63打点で2度目の打点王と二冠奪取。

2軍ではマジ史上最強と言っても過言ではないYO砲。
って言うか、いい加減1軍に上げてやってくれと突っ込みたくもなるが、当時の巨人は落合博満、清原和博、広澤克実、ジャック・ハウエルと大砲タイプの1塁手と3塁手を狂ったように補強。さらに原辰徳や岡崎郁の生え抜きベテラン陣も在籍しており、とどめに長嶋ジュニア一茂も三塁起用と何をどうやっても試合に出られる状況ではなかった。

近鉄へ移籍……吉岡の劇的な変貌


しかも、長嶋監督は感情を表に出す元気な選手を好む傾向があった。吉岡も大森も寡黙で淡々とプレーする性格で、それだけでアピール不足と見られてしまう悪循環。

吉岡は95年終盤に1軍でプロ初アーチを含む4本塁打を放ち大器の片鱗を見せるも、翌96年のプロ7年目のシーズンを最後に、石井浩郎との交換トレードで石毛博史とともに近鉄へ移籍。98年シーズン序盤には大森も近鉄へ移籍し、“YO砲”が揃って大阪でリスタートを切る。

25歳で環境を変えた吉岡は現代の大田泰示ばりに劇的な変貌を遂げる。
近鉄2年目の98年には13本塁打、翌99年はレギュラーを獲得し初の規定打席到達。2001年には26本塁打、85打点といてまえ打線の主軸打者として近鉄最後のリーグ優勝に大きく貢献した。
その後の吉岡が08年まで現役生活を続けたのとは対照的に、大森はバファローズ生活わずか2年で現役引退。吉岡の通算131本塁打中126本は、近鉄と楽天で放ったものである。

99年に刊行された『元・巨人』(矢崎良一著)には近鉄移籍直後の2人の貴重なインタビューが収録されているが、自身ののんびりした性格を認めつつも「ずっと使ってくれれば、オレは結果を出せる」と新天地での手応えを口にする吉岡と、巨人に未練たっぷりで「ジャイアンツでは入った時代が悪かった。由伸の活躍を見てつくづくそう思いますよ」なんつって愚痴る大森の姿も今読むと興味深い。


甲子園での活躍、巨人入団への近道だった?


ちなみに吉岡を指名した頃の巨人ドラフトは同い年の元木大介(上宮)、その3歳下の松井秀喜(星稜)、投手では甲子園優勝経験のある橋本清(PL学園)、谷口功一(天理)らと毎年のように高校野球界のスター選手を1位指名。

当時は甲子園での活躍が巨人入団への近道といった雰囲気すらあった。個人的には近年の独自路線という名の小粒ドラフトよりも、甲子園のヒーローを狙うミーハー路線のドラフトの方が断然いいと思う。プロの世界において、人気や知名度は足が速いとかパワーがあると同じで立派な才能のひとつだからだ。

最近は、巨人関係者も清宮幸太郎(早実)を絶賛するコメントが目立つが、果たして巨人はこの秋に再び甲子園が生んだスターを指名するのだろうか?
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(参考文献)
『元・巨人 ジャイアンツを去るということ』(矢崎良一著/廣済堂文庫)
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