連続テレビ小説「わろてんか」(NHK 総合 月〜土 朝8時〜、BSプレミアム 月〜土 あさ7時30分〜)
第22週「夢を継ぐ者」第126回 3月2日(金)放送より。 
脚本:吉田智子 演出:東山充裕
「わろてんか」126話。広瀬アリスと松尾諭の幸せカップルのモチーフになった人物の波乱万丈人生
イラスト/まつもとりえこ

126話はこんな話


リリコ(広瀬アリス)とシロー(松尾諭)は高座で結婚を報告、上海に旅立っていく。

夫を支える美しい妻


高座で結婚を報告、最後の漫才を行って、お客さんに祝福された、ミス・リリコ アンド シロー。
最後の高座を見に来た栞(高橋一生)に、やめる、やめるもこれが最後かな」と栞に言われて、「たぶんな」と笑わせるリリコ。
娘義太夫としての大阪での活動をやめて、東京で活躍し、それを辞めて大阪に戻り、映画女優になって、また辞めて夫婦漫才をはじめて、またまた辞めて結婚、上海へ、という流れなので、結婚も「やめる」とか言わないといいけれど。

「これからは夫を支える美しい妻になるわ。
腕によりをかけてご飯つくって、家をぴかぴかに磨いて、シローの帰りを待つんや」


女も社会進出するという考え方とは真逆の生き方を選んだリリコ。
人気絶頂で引退した山口百恵のようである。

リリコとシローのモチーフとなっている実在の人物は、ミスワカナ(初代)・玉松一郎だ。
初代とあるのは、初代が36歳の若さで亡くなったあと、一郎は、二代目、三代目、四代目と次々、パートナーを取り替えていくことになる。

「吉本興業百五年史」によると、リリコのモチーフになっている初代ワカナは、夫も子どももいる身でありながら、一郎に惚れ込んで駆け落ちしたとある。出た、駆け落ち!(藤吉とてんは駆け落ちの末、結ばれた)。 
チェロ楽士として活躍していた一郎と漫才コンビを組み活動をはじめ、吉本興業に入り、人気を博す。戦中は慰問劇団「わらわし隊」に参加し、横山エンタツ(キースのモチーフになってる人物)などと共に中国に渡った。
その後、他社に引き抜かれたり、離婚したり、波乱万丈の末、ワカナは亡くなった。
二代目ワカナは、ミヤコ蝶々であった。

「わろてんか」のリリコとシローの今後はどうなるであろうか。

見守るだけの静かな愛


ラブラブで旅立って行ったリリコとシローに対して、隼也は、仕事をしていても、つい、つばき(水上京香)の面影がよぎってしまう。

「見守るだけの静かな愛っていうのも悪くないんだけどなあ」
と栞(高橋一生)は言うが・・・(自分と重ねているのがまるわかり。自分で自覚しているところが面白い)、隼也はそうはできそうにない。

つばきは女の命・長い髪を切ろうとまで思い詰め、ついには、家を出る。
結婚を辞めて、九州の親戚を頼って行く前に、隼也に挨拶をと、北村家を訪ねるが、父(及川達郎)に報告されてしまう。

迎えに来た父につばきは、はっきり「結婚しません。二度と家にも帰りません」と宣言する。

つばきがお父さんにぶたれる音を聞いて、隣の部屋で隠れていた隼也は矢も盾もたまらず・・・。
お父さんには「友達です」と言うが、明らかにワケありとバレたであろう。

隼也とつばきがお別れした理由は、つばきの家が北村笑店に融資している銀行のためだ。娘の結婚の邪魔をしたら関係が悪くなって融資を止められたら困る。

にもかかわらず、家を訪ねてくるつばきも、つばきを家にあげるてんも、彼女が来たことを隼也に教えてしまう風太(濱田岳)も、なんだかトンチンカンだ。

通常、主人公サイドの人物は、その生き方が正義に見えるよう、見ているほうが同情的になるように描く
もの。たとえば「ロミオとジュリエット」や近松門左衛門の心中物などは、周囲の反対にあって、逃避行の末、心中してしまう恋人たちを、美しい物語に仕上げている。朝ドラだと現在再放送中の「花子とアン」(14年)の蓮子(仲間由紀恵)の道ならぬ恋は、古典の流れを汲んで書けていた。ところが、「わろてんか」はそうではない。なんでそんなことするんだ、ふつうに考えておかしいだろうと見ていてもどかしくなる一方だ。

過去の悲恋ものと「わろてんか」のそれの何が違うか。昔の悲恋ものにおける、身分違いの恋、政略結婚、駆け落ち、心中(念のため、「わろてんか」では心中までは書いてない)等々は、自分たちの生き方を狭める社会制度に対するささやかな反抗の現れだったが、「わろてんか」にはその感覚がない。現代の価値観で、当時の駆け落ちや親に反対された恋を描くから、古典でなぜそういうものが描かれたか、庶民にそれが愛されたか、その意味が抜け落ちる。「とと姉ちゃん」(16年)におけるジャーナリズムの書き方も、そうだった。

盲目の愛をありふれた滑稽なものとして笑うという視点もあっていいと思うが、そこまで振り切って、精度を上げたドラマになっているようにも見えず、それが見ていてもどかしく感じる要因にもなっている。
作り手は、過去をどう描くかに関して、もう少し真剣に取り組む必要があるのではないか。

(木俣冬)