「人生100年時代」に死とどう向き合うべきか 宗教学者に聞いてみた

最近、「人生100年時代」というフレーズをCMなどでよく耳にするようになった。いまや老人ホームでも「80代は若手」といわれるほどに、日本人の寿命は延びているとか。
そんななか、宗教学者の正木晃氏が『しししのはなし宗教学者がこたえる死にまつわる<44+1>の質問』(CCCメディアハウス)を刊行。
「死ぬのが怖いのは、なぜ?」「自殺は悪いこと? 命は誰のもの?」などなど、多くの人が抱いている死にまつわる素朴な疑問に答えてくれる。
今回は本書の内容を踏まえつつ、正木先生に筆者が個人的に興味のある自死の問題や、死と科学の関係についてお話を伺ってみた。


人気アニメの主人公の死についても言及


「人生100年時代」に死とどう向き合うべきか 宗教学者に聞いてみた
表紙にも登場するキャラクター、「しししの死太郎」と、正木先生ご本人もイラストで登場する。この似顔絵はかなり似ているかも

――正木先生は少年時代にお父様が脳卒中で倒れ、人間の知性や理性がいかにもろいものかを痛感されたご経験から、宗教学という「知性や理性を超える領域」に生涯を捧げようと決意なさったとか。
本書は死という重くなりがちなテーマを『ミンキーモモ』『鉄腕アトム』など人気アニメにおける主人公の死であったり、『千と千尋の神隠し』に登場する死後の世界を思わせるシーンに言及したりしつつ、ポップにわかりやすくお書きになっていて、思わず引き込まれてしまいました。


正木晃(以下、正木) たしかに「死」はとても重いテーマです。できることなら、見たくない、考えたくない、と思っている人も多いはずです。
でも、だからこそ、正面からきちんと向き合わなければならないテーマでもあるのです。
ただし、重いテーマを重く論じたのでは、読むほうがしんどくなるのは目に見えています。そこで、できるだけ敷居を下げ、間口を広げて書いてみました。重々しくて難しい言葉を使う書き方をしていると、いつまでたっても、死を身近なテーマにすることはできません。とにかく、偉ぶらないこと、読みやすいこと。それが今回、企画するときの絶対条件だったのです。
それは、十分とまでは言えませんが、ある程度までは実現できたと思います。


日本で宗教のイメージが悪いのはなぜ?


――ところで、現代の日本では、ニュースなどでカルト宗教が話題になることが多いせいか、宗教=心の弱い人がつけこまれるものとして拒絶反応を示す人が少なくないように思います。そもそも、宗教とはなんでしょう? 正しい宗教、正しくない宗教というのはあると思われますか?

正木 「宗教学」という学問の分野では、半分冗談めかして、宗教の定義は宗教学者の数ほどあると言われます。
私自身は「個人の精神的な救い」かつ「社会的な規範の提供」。つまり何が良いことで何が悪いことなのかを、いちばん深いところから人々に教えてくれるのが宗教だと考えています。

でも、おっしゃるとおり、現代の日本では宗教というと、嫌われる、拒まれる、逃げられるという感じがありますね。原因は、第二次世界大戦で「欲しがりません勝つまでは」とか「日本は神国だ!」みたいに、実情を無視した過剰な精神主義が横行したこと、その反動で戦後は左のマルクス主義、右の資本主義という具合に、唯物論に挟み撃ちされたことなどがあると思います。


それに、一部の宗教団体が強引な勧誘をしたとか、オウム真理教がとんでもない事件を引き起こしたとか、お坊さんや神職のなかにも堕落や腐敗した人がいたとか、お葬式で法外な金銭を要求したとか、宗教のイメージを悪い方向へ引っ張ってしまったのも、大きく影響しています。

正しい宗教、正しくない宗教という問題のたて方は、それこそ問題です。何をもって正しい正しくないと判定するのか。それは価値観に関わっています。とりわけ宗教にまつわる価値観は、まさに多種多様で、正解はないかもしれません。たとえば、仏教とイスラム教では、まったく異なるものがあります。
正直言って、仏教とイスラム教が、お互いを真に理解して、そのうえで本当の意味で仲良くなれるとは思えません。そこそこのところで、折り合うというのが精一杯でしょう。


日本人の宗教心はゆるく、曖昧で、わかりにくい


「人生100年時代」に死とどう向き合うべきか 宗教学者に聞いてみた

――本書でもっとも興味深かったのが、「死後世界を信じているか、いないか」を問うアンケートでした。日本では宗教に対してネガティブイメージを持つ人が一定数いる反面、このアンケートでは、若者ほど信じるという人が多く、70歳以上に信じない人が多いという結果が出たんですよね。一般的には、若い人ほど虚無的で「神などいない」という人が多く、高齢者ほど信心深いイメージがあるのに意外ですね……。
これは経済至上主義とならざるをえなかった戦後の若者が、そのまま老人になったからだ、という分析もおもしろかったです。「この60年で日本は随分宗教的になった」とも書かれていましたが、それはなぜだとお考えですか? 本来、日本人は宗教的な国民だということでしょうか?


正木 キリスト教みたいに毎週教会に行ってお祈りをするとか、イスラム教みたいに毎日何回も聖地メッカに向かってお祈りするとか、そういう行為で、宗教心があるかないかを判定するのは、少なくとも日本では無意味です。

なぜなら、日本人の伝統的な宗教は、日常生活のなかに、宗教がいかにも宗教らしい形であるとは限らないからです。そもそもお彼岸やお盆に、墓参りをするのは、立派な宗教的行為です。初詣も盆踊りも、外国人の目には、宗教的な行為にしか見えません。ところが、日本人の多くは、それが宗教的な行為とは考えていません。
よく指摘されるとおり、日本はおそらく世界でいちばんキリスト教徒が少ない国です。では、なぜ少ないのか。
自分では気付いていませんが、日本人の多くが宗教を持っているからです。ただし、日本人の持つの宗教はゆるくて、曖昧で、キリスト教やイスラム教のようにいかにも宗教らしい宗教ではないのです。

こういう事実もあります。明治維新以降の近代化の過程で、日本人は欧米の列強に追いつけ追いこせとばかりに、欧米をモデルとみなし一生懸命がんばってきました。がんばらないと欧米列強の植民地にされてしまうので、仕方なかったのです。この過程において宗教は邪魔でした。文明化の敵でした。だから排除されがちでした。
その後、第二次世界大戦でこてんぱんに負け、ついで高度成長で経済至上主義となり、日本はなんとか生き延びました。そしてバブル期・バブル崩壊を経て、いま日本人の多くは、一息ついて、自分たちの足もとを見つめる余裕がやっと生まれてきた気がします。すると、もともと持っていた宗教性が復活しつつあるのではないか。私は、そう考えています。

――たしかに初詣も盆踊りは宗教的な行為というより、季節のイベントとして捉えている人が多いですね。経済優先で精神的なものを置き去りにしてきた結果、何か依リどころを求めているのは確かなんだけれども、それが何かはまだわからない、といった感じもします……。


死後の世界は、科学では解き明かせない!?


――神、魂、幽霊といった目に見えない世界の話をしていると、必ず「死後の世界は科学で証明できないのだから、そんなものはない」と水を差してくる人がいます。先生の著書では、「死後の世界は科学の担当ではない」「宗教的真実と科学的真実は両立する」と書かれていましたが、これはなぜですか?

正木 死後世界があるかないか、科学的に究明しようとしている人びとは、日本にもいます。現に私自身、その種の団体から依頼されて、講演もしています。
たとえば、臨死体験の場合、臨死はあくまで「死の直近」であり、「死」そのものではないので、いくら臨死体験を研究しても、死後のことはわかりません。少なくとも現状では、完全に死んでしまった人が、はたして何かを見ているのか、感じているのか、探るすべはありません。

ようするに、死後の領域は科学的な方法論では解明しようがないのです。
また、科学にはおのずから限界があります。たとえば物質の根源を探るためには、加速器が必要です。しかし、現時点で最大の加速器をもってしてもまだ十分ではありません。もっともっと大きな施設が必要とされています。ところが、今ある施設以上に大きなものを建てるのは、技術的な問題以前に、経済的に無理なようです。

科学は理論があって、その理論が実験によって確かめられて初めて真実と認定されます。でも、もはや実験ができなくなりつつあるのです。そうなると、科学も理論だけになります。理論だけで証明することができないなら、宗教と似たようなものです。というように、先端科学の領域では、今、とても皮肉なことが起こっています。
ちなみに、アメリカでは国を挙げて、「脳のアポロ計画(ブレイン・イニシアティブ)」を進めています。脳の神経伝達の仕組みをすべて解明して、コンピューター開発に応用しようという計画です。もし仮に、脳の神経伝達の仕組みをすべて解明できたとして、死後の領域を解明することは可能でしょうか。人が生命の危機に遭遇したとき、脳はどういう対処するかがわかるくらいで、死後の世界は未解明のまま残ると思います。


日本では自分の死を自分だけでは決められない


――武士の切腹を筆頭に、江戸時代の心中ブームなど、日本人は自死を美化する傾向があるんですね。愛を成就させるのが目的の心中に対し、なんら心のつながりがない、現代の殺伐としたネット集団自殺との比較も興味深かったです。
著書では読者ターゲットが比較的、若い人であることから言及されていませんでしたが、高齢者の安楽死や尊厳死についてはどうお考えになられていますか?


正木 高齢者の自殺は、3分の2くらいが「うつ病」と関係しています。したがって、「うつ病」対策が進めば、高齢者の自殺は劇的に少なくなります。事実、対策が進んだ地域では、高齢者の自殺がずっと少なくなりました。

問題は安楽死や尊厳死です。ヨーロッパの先進地域では、年齢を問わず、安楽死や尊厳死を認める傾向があります。背景に、これらの地域では個人主義の要素が大きいことが挙げられます。つまり、自分の死は自分で決められる、というより決めなければならない。そこに安楽死や尊厳死が成立するというわけです。

その点、日本は、それほど個人主義が強くありません。家族とか親族とか、いわゆる「絆」が重視される傾向が明らかです。言いかえると、自分の死を自分だけでは決められないということです。仮に自分で安楽死や尊厳死を選んだ人がいたとしても、なんらかの「絆」を持つ人々が「遺族に対して十分な治療も受けさせず、見殺しにした」とか、「本当はもっと生きていたかったのに、これ以上厄介をかけるわけにはいかないので無理に命を縮めた」とか言われてしまうかもしれません。
また、高齢者の場合、認知症の問題があります。「知的な能力が衰えていたので、的確な判断ができなかった」とか「知的な能力の衰えにつけこんで生命を縮めさせた」とか、いろいろ言われる可能性があります。

このような面倒な要素があることを考えると、日本では堂々と安楽死や尊厳死を実行するのは、かなり難しいと思います。もし、私がそのような状況になったとしたら、安楽死とも尊厳死とも宣言せずに、意図的に食事の量を減らすとか、延命治療をはっきり断るとかして、とにかく角が立たない形で、実質的な安楽死や尊厳死にいたるかもしれません。

――個より周囲との和を尊ぶ国民性を考慮すべきということですね。あと、これはあくまでも想像ですが、尊厳死を選ぶ方が人として立派だ、みたいな風潮になったら恐いな、とも思いました。


死者との距離感は、遠すぎず近すぎないのが大切


――最近は昔ながらのお通夜&お葬式が減り、宗教色を排した密葬&お別れ会が増えてきましたね。また、墓守をする子孫がいないことから墓じまいをする人が増え、遺骨などの加工品をお守りのように身に着ける人もふえました。
先生は「死者とつながるモノと常に一緒にいることで、いつまでも死者との距離がとれない状態になるのは、あまり好ましいことではない」と著書で懸念されていましたが、それはなぜですか?


正木 大事なのは、死者との距離感です。遠すぎても近すぎても良くありません。私たちが生きていくためには、死んだ人といつまでも付き合っているわけにはいかないのです。その点からすると、古代から人が死者に対して愛惜の念と恐怖の念、両方を抱いてきたことはとても重要な事実です。
死者との関係をより良くするために、昔から行われてきたのが「遺品整理」です。「形見分け」もあります。いずれにしても、生前の持ち物、つまり遺品などを、いつまでも、たくさん持っていないことが大切なのです。
「モノ」は、やはり力があります。とくに遺品には、他の「モノ」にはない不思議な力があります。
それを考えられれば、死者と直につながっている遺骨の加工品などは、尋常ではない力を秘めている可能性があります。ですから、そういう「モノ」を身につけたり、身近に置いたりするのは、死者の呪縛から逃れられないという事態につながりかねません。やめておいた方が無難です。


チベットの「鳥葬」は単に燃やす木がないから


――また、最近は葬儀の内容についても、生前から準備して個性を出そうという傾向になっていますよね。
先生は未来のご自身の葬儀について、何かこんなふうにしたいという希望はあるのでしょうか? チベット仏教をご専門とされている先生が、個人的な部分ではどのようなお考えをお持ちなのか興味があります。

正木 自分のお葬式は、ごく普通でよいと考えています。あまり変わったことをする気はありません。
チベット仏教では、偉大な僧侶はミイラにして、仏塔に祀る伝統がありますが、あくまで特殊な事例です。一般の方は、「鳥葬」といって、鳥に食べさせて、それでお終いです。
よく誤解されていますが、「鳥葬」はチベット人にとって決して好ましいことではありません。火葬したくても、燃やす木がないので、「鳥葬」にしているというのが実態のようです。鳥に食べさせて、霊魂を天界へ運んでもらうと思っている人もあるようですが、誤解です。チベット人の大半は輪廻転生を信じているので、死後49日以内に他の生命体に生まれ変わるというのが常識です。霊魂を鳥に運んでもらうという発想はありません。


死にまつわる課題に、おしきせの正解はない


――今回は『しししのはなし』のアウトテイクともいうべき、密度の濃いトークをありがとうございました。最後に、これから本書を手にとる読者へのメッセージなどありましたらぜひ。

正木 本が完成したとき、これまでお世話になってきた先生方やお寺に贈呈しました。お礼の手紙やメールもいただいています。
日本仏教研究の第一人者である末木文美士先生(東京大学名誉教授)やインド・チベット宗教研究の世界的な権威である立川武蔵先生(国立民族学博物館名誉教授)からは、とても高い評価をいただきました。

とくに、末木先生からは「とても面白く読みました。今は、若い人にもっと死の教育が必要なのに、本当にそれが欠けています。本書は特定の立場を押しつけるのでなく、柔軟に読者に自分で考えさせるという方向がよいと思います」という言葉をいただいています。また、仏教界で布教の現場で頑張っているお坊さんたちにも、非常に好評でした。
末木先生の言葉にあるように、私がこの本で提供したのは、死にまつわる素材です。あとは、読んでくださった方々が、自分の頭で考え、心の中で反すうしていただきたいのです。死にまつわる課題に、おしきせの正解はありません。自分自身の課題と思って、解明に努力してください。


なお、本書ではクリハラタカシ氏によるキャラクター、「しししの死太郎」が、全編を可愛らしく彩る構成となっているのも見どころ。帯で死太郎が「死の菓子折り、どうぞ、めしあがれ」とのし紙付きの箱を差し出しているが、まさに「死」をあらゆる視点からアソートした不思議な1冊であった。
またタイトルの<44+1>にも実は意味があり、帯でその意味を解説している。そして、実はこの死太郎くんが最後に別の生き物に変身!そんな細かい仕掛けも含め、ぜひ楽しんでいただきたい。
(野崎 泉)