
小説版『2001年宇宙の旅』
猿人の時代から一気に数百万年を飛び越え、人類が宇宙に進出した2001年の“未来”を描くこの映画は、そのスケールに合わせ、大画面での上映を前提に、70ミリフィルム(通常の映画は35ミリ)で撮影された。
テーマパーク気分が味わえる映画
ちなみに今回、私が観に行ったのは大阪の万博記念公園にある「109シネマズ大阪エキスポシティ」である。1970年に開催された大阪万博の会場跡地で、この映画を観るというのもなかなか味わい深い。そもそもカナダのIMAX社の開発したIMAX方式の映像が世界で初めて上映されたのは、大阪万博の富士グループ・パビリオンだった。「人類の進歩と調和」をテーマに掲げたこの万博では、前年に人類初の月面着陸に成功したアポロ11号の採取した月の石がアメリカ館で展示され、それを見ようと人々が行列をつくった。当時の多くの人々はおそらく、遠からぬ未来、21世紀に入るころには人類は月からさらに先、ほかの惑星にも進出すると思っていたことだろう。木星に向けて探査船が飛ぶ「2001年宇宙の旅」は、まさにそんな時代の産物ともいえる。
しかし内容はけっして古びていない。CGのない時代の作品にもかかわらず、宇宙空間の映像はいま見てもまったく嘘っぽくなく、リアルだ。あるいは冒頭、猿人が空に向かって骨を投げると一気に数百万年を飛び越え、骨が宇宙船に変わるという有名なシーンは、これまでさんざんパロディにされてきたが、そのアイデアにあらためてうならされる。音楽も既成曲の既成録音だけを用いながら、どれも見事に映像にハマっている。宇宙船が地球から宇宙ステーション、さらに月へと向かうシーンでは、そこで流れるヨハン・シュトラウス2世の「美しく青きドナウ」に合わせて思わず肩を揺らしそうになった。
個人的には観るのはたぶん約20年ぶり、ただし前回はビデオでの視聴だったので、大きなスクリーンで観るのは初めてだったのだが、よく言われるとおり、まったく印象が違う。
この映画は全編を通してテーマパークに行ったかのような気分が味わえる。冒頭の太古のシーンはどこかジオラマっぽいし、宇宙旅行のシーンはヴァーチャル観光映画と呼ぶにふさわしい。また、宇宙船や宇宙ステーションの内部に、声紋認証システム、テレビ電話、タブレット端末風の機器(その名も「ニュースパッド」)などさまざまなガジェットがあふれる風景は、公開当時には未来の生活を先取りするものととらえられたことだろう。現代から見ると、どこか懐かしくもあり、レトロフューチャーともいうべき感覚を抱かされる。
こんなふうに、現実の2001年から20年近くを経たいまも私たちに感銘を与え、名作として語り継がれる「2001年宇宙の旅」だが、1968年に公開されたときには賛否両論、真っ二つに分かれたという。否定的な意見としては、長すぎて退屈、またナレーションが一切なく、セリフも少ないので難解といった声が多かった。じつは監督のキューブリックは当初、解説ナレーションをつけたものの、映像により力を持たせるために、最終的にすべてカットしたという。
キューブリックは完成後も、この作品について多くを語ることを避けた。彼はその理由を《なぜならあれは言語とは関係のないものだからだ。理性よりも潜在意識や感情に訴える。見ることに注意を払っていない人たちには根本的な問題がある。
人間性の象徴としての「目」
さて、このキューブリックの発言からふと思ったのだが、「2001年宇宙の旅」は「目」というキーワードで語れるのではないか。振り返ってみれば、たしかにこの映画では、大きく3つに分かれた各パート──「人類の夜明け」「木星探査計画・18ヵ月後」「木星、そして無限の彼方」──で印象深い「目」が登場する(なお、ここから先の文章は、映画を観たあとに読んでいただいたほうがいいかもしれない)。
冒頭の「人類の夜明け」でいえば、猿人の目がそれにあたる。一見すると、ここに出てくる猿人たちはヒトというよりほとんど類人猿だ(よく見ると、役者が着ぐるみで演じる猿人たちのなかに本物のチンパンジーの赤ちゃんがまぎれこんでいたりする)。じつはキューブリックは、もっと体毛の少ない、より現代人に近い猿人を登場させるつもりであったという。しかし、実際にそうしてみたところ、下半身が目立ってしまい全身を撮れないので、「もう100万年さかのぼろう」ということになったらしい(デイヴィッド・ヒューズ『キューブリック全書』内山一樹・江口浩・荒尾信子訳、フィルムアート社)。
こうして結果的にゴリラかチンパンジーのような猿人が登場することになったのだが、一つだけ、類人猿と大きく異なる点がある。それが目だ。大半の霊長類は、ヒトの白目にあたる部分がこげ茶色になっている。しかし、この映画ではおそらく俳優がお面をかぶるのではなく、顔にメイキャップしているからだろう、目だけは人間そのままで、しっかり白目が確認できる。
最近の霊長類研究では、ヒトは白目があるおかげで、黒目の位置、つまり視線の動きが強調され、そこから心情を読み取るなど、視線によるコミュニケーションが発達したと考えられているようだ(「京大連続高座・人間とその進化の隣人たち 3 オランウータンとヒト、形態から考える」)。もっとも、そんなことは当時のキューブリックは知る由もなかっただろう。しかし、技術的な事情から類人猿に近い形にせざるをえなくなった猿人を、少しでもヒトに近づけるにはどうしたらいいのか、考えた結果、俳優の白目をそのままにしたというのはありえるのではないか。
目で人間性を表すという意味では、「木星探査計画・18ヵ月後」のパートで、ある使命を帯びて木星に向かう宇宙船の制御用コンピュータ「HAL9000」にも同じことがいえる。赤いランプのようなHALの目は、カメラとして船内全体を監視している。ロボットのような形をとらないHALにとって目は、その理知的な声(演じるのはカナダ人俳優のダグラス・レイン)とともに人間らしさを感じさせる数少ない要素だ。
そのHALは突如としておかしな行動をとりはじめ、やがて人間に対し反乱を起こす。宇宙飛行士たちはHALに聞かれないよう、カプセルに籠って対策を話し合うが、HALはその目によって彼らの唇の動きを読み取り、会話の内容を察知するのだった。
HALは結局、宇宙飛行士の一人によって回路を遮断され、機能を停止する。人間に反抗した報いとはいえ、最終的に記憶モジュールを抜き取られながら、歌までうたっての命乞いもかなわず“死”を迎えるHALの姿は何だか切ない。知性を持ってしまったがゆえの悲哀すら感じてしまう。
映画はこのあと、「木星、そして無限の彼方」のパートのラストで、やたらと目の大きな赤ん坊……いわゆる「スターチャイルド」が登場して終わる。
膨大な解釈を読んで、また観たくなる?
「2001年宇宙の旅」については半世紀前の初公開以来、さまざまな解釈がなされてきた。それらを読むと、映画を観たときにはわからなかったところもそれなりに理解できる。もちろん、なかには納得のいかないものや、深読みしすぎではないかというものもある。だが、そういうものもひっくるめて、いくつもの解釈が成り立つことこそ、この作品の奥深さだろう。
この映画の制作過程や公開後の賛否両論さまざまな声を収録した『メイキング・オブ・2001年宇宙の旅』(ジェローム・アジェル編、富永和子訳、ソニー・マガジンズ)の巻末には、同書の校正者の発言として《もちろん、わたしは『2001年宇宙の旅』を見たよ──だが、これを読んで、本当に見たかどうか確信がもてなくなった》という言葉が出てくる。
私もこの記事を書くうえで、何冊か関連書を読んでいるうち、同じような気持ちを抱いた。自分では気づかなかったことを確認するためにも、今回のIMAXでの上映の終了までに、どうにか時間をつくってもう一度観ておきたいところである。
(近藤正高)
※「2001年宇宙の旅」は下記のIMAX劇場で11月1日(木)まで上映中
109シネマズ(二子玉川、木場、湘南、菖蒲、大阪エキスポシティ、箕面)
TOHOシネマズ(日比谷、新宿、ららぽーと横浜、なんば、二条、仙台)
ユナイテッド・シネマ(としまえん、浦和、豊橋18、岸和田、キャナルシティ13)
T・ジョイPRINCE品川/横浜ブルク13/広島バルト11/鹿児島ミッテ10
シネマサンシャイン(大和郡山、衣山、土浦)
イオンシネマ大高/成田HUMAXシネマズ/USシネマちはら台/福山エーガル8シネマズ