「わかってくれない世間が悪い」のか?
本書はそのタイトルどおり、ロックでいかに独立するかを、清志郎が自らの体験を踏まえながら語ったものである。山崎浩一は巻末の「ライナーノーツ」で、《彼は「やっちまえ」とだれかを煽ったり説教したりする歌など歌ったことはなかったし、自分が責任主体であることから逃げられない場に身をさらして歌ってきたはずだ。だからこそ彼の歌はいつも具体的だった》と書いているが、本書でもまた、清志郎はけっして煽ったり説教したりすることなく、その話はどこまでも具体的だ。
たとえば、売れないミュージシャン(にかぎらず、物書きにも、アーティスト、クリエイター全般にも当てはまることだが)はえてして自分の不遇を世間のせいにしがちだし、そういう者に対しては必ず「世間のせいにしてはいけない」と誰かが忠告してくれることになっている。しかし、これについて清志郎は、ずばり「わかってくれない世間が悪い」と題した第1章で疑問を投げかける。
《それで簡単にこちらが納得しちゃったら、これはもう、わかってくれない世間に合わせる方向に行くしかないじゃないか。それだともう、すごくつまんないことになると思うんだ。実際、世間も悪いし、レコード会社も悪いんだっていう責任転嫁もできるし、事務所が弱いんだっていう場合もあるかもしれない。いや、お客が馬鹿なんだ、とかね。でも、そっちのほうがオレはなんか、ホントのような、真実味があるような気がするんだよ。/そう簡単に反省しちゃいけないと思う、自分の両腕だけで食べていこうって人が》
自分のやりたいことを貫いてきた彼ならではの言葉だ。
独立は「自由」か「面倒」か?
高校時代の1968年にバンド・RCサクセションを結成し、1970年にレコードデビューした清志郎は、第7章「「バンド」からの独立」で以下のようにあげているとおり、いろいろな段階での「独立」を経験してきた。
【1】まずRCとしてバンド活動を始めることによる親や学校、周囲からの独立。
【2】次にRCごとプロダクションを設立した第一期独立。
【3】そして忌野自身の個人事務所を設立した第二期独立。
【4】さらにそれと前後してRCそのものからの独立。
この間、レコード会社や事務所の社長、あるいはバンドのメンバーと対立することもたびたびあった。プロダクションから独立して個人事務所を設立したときには、面倒くさい問題も抱えねばならなくなった。これについて彼は第6章「独立は「自由」か「面倒」か?」で次のように語っている。
《独立する前の「自分には見えなかった問題」とか「自分には関係なかった問題」ってのは、ようするに「自分ではどうにもならない問題」だった。それが「自分でどうにかしなきゃならない問題」になってくるわけだ。それはつまり「自分でどうにかできる問題」ということだ。
ここでもまた問われているのは覚悟である。こうして見ると、清志郎は好きな音楽を続けていくためにずっと腹をくくってきた人なのだとあらためて思う。
「オレは歌でニュースをつくった」
1999年に、アルバム『冬の十字架』でロック版「君が代」を演奏したときには、レコード会社と衝突し、結局インディーズレーベルからリリースした。このとき、多くのメディアからインタビューを受けたが、訊かれるのは「君が代」のことばかり。同じアルバムにはアメリカ国歌も収録されていたにもかかわらず、これについて触れたのは、アメリカのニュース誌「TIME」の記者以外は誰もいなかったという。これについて彼は、《日本ではとにかく音楽以前に『君が代』問題があるわけだ。「日本国歌をロックにした」っていう事実だけが問題であって、音楽になんかきっと興味がないんじゃないか?》と疑問を投げかける。
一方で、清志郎は本書において、売上至上主義の音楽業界に対する不満もしばしば漏らしている。メディアでもニュースになるのは、CDの売上枚数だったりコンサートの観客動員数だったりと、「統計」ばかりだ。これに対し彼は、先の「君が代」をはじめ、《少なくともオレは歌でニュースをつくった》と自負してみせた(第6章)。
音楽が「統計」だけで語られることに異を唱え、単に「ニュース」として扱われることにも疑問を呈す。やはり清志郎はどこまでも純粋に音楽が好きだったのだ。
(近藤正高)