片渕須直監督のアニメーション映画「この世界の(さらにいくつもの)片隅に」(以下、「さらにいくつもの」と略)が昨年暮れに全国の劇場で公開されてからというもの評判を呼んでいる。今月以降も上映館は増える予定で、ロングランになりそうな勢いである。

「この世界の(さらにいくつもの)片隅に」の「さらにいくつもの」の意味。さらに増えるいくつもの上映館
映画「この世界の(さらにいくつもの)片隅に」公開にあわせ、アートブック(画像)など関連書籍もいくつか刊行されている

新たな場面の追加で全体の印象もがらりと変わる


そもそも「さらにいくつもの」の元の作品となる「この世界の片隅に」からして、2016年11月に公開以来、上映館を拡大し、昨年8月には連続上映1千日という異例のロングランを記録している。「さらにいくつもの」は、「この世界の片隅に」に40分ほど新たな映像を追加して再編集したものだ。戦時中に広島から軍港のある呉へと嫁いだ北條すず(旧姓・浦野)を主人公にした「この世界の片隅に」は、こうの史代による同名の原作マンガの世界観を活かしつつ、綿密な調査にもとづく微に入り細をうがつ描写で、私たち観客を圧倒した。それは今回の「さらにいくつもの」も変わらない。のほほんとした性格のすずさんが、戦時下にあってさまざまな試練に遭遇しながら生きていくさまには胸を打たれる。

既存の映画を監督自ら場面を追加したり削ったりして再編集した作品をディレクターズカット版というが、「さらにいくつもの」はタイトルまで変更されていることからもあきらかなように、単なるディレクターズカット版ではない。あらすじはほぼ同じとはいえ、新たな場面がいくつか加わることで、これほどまでに作品全体の印象が変わってしまうのかと、私は本作を観て衝撃を受けた。たとえばすずさんが、北條家を訪ねてきた幼馴染で海軍に入った水原と、夫・周作のはからいにより一夜をともにすごすシーン。これはもともと「この世界の片隅に」からあったシーンだが、「さらにいくつもの」ではその直前にすずが周作のある秘密を知るシーンが加わったために、まるで意味合いが違って見える。

本作ではこのほかにも、新たなエピソードを付け加えることで、前作「この世界の片隅に」で描かれた物語や人間関係の裏側にあったものを浮かび上がらせ、ある意味、前作の答え合わせのような趣きがある。すずさんが嫁ぎ先で自分の居場所を探し続ける姿が前面に押し出されているのも、「さらにいくつもの」の特色だ。そんなすずさんを、のん(能年玲奈)が演じているのがまた、彼女が朝ドラ「あまちゃん」に主演後に置かれてきた境遇を思えばグッとくるものがある。

このほか、前作ではすずさんと周作の結婚式のシーン以外、さほど出番のなかった二人の仲人である小林の伯父・伯母夫妻が本作ではちょこちょこ登場し、かつ物語の展開上、結構重要な役割を担っているのも注目だ。
さらに周作の父で、すずさんの義父である円太郎の技術者としての一面にスポットが当たるなど、見どころをあげていくときりがない。

戦争中でも四季はいつものように移ろう


「さらにいくつもの」を観ていて、いまひとつ印象に残ったのが、自然の描写である。すでに前作より、鳥のサギが物語の展開上、わりと重要なモチーフとして登場していたが、本作では、新たにクローズアップされたすずさんと呉の朝日町の遊郭で働く女性・白木リンの関係を描くなかで戦争末期の花見のシーンが出てくるほか、春の野に咲くタンポポや、夏の林で樹液に集まるカブトムシなど、動植物の描写を折に触れて差し挟みながら四季の変遷が描かれていた。「国破れて山河あり」という言葉があるように、人間たちが戦争をしているあいだにも四季は移ろい、動植物たちは変わらぬ営みを続けているという描写からは、逆に戦争の愚かしさを感じてしまう。

自然の描写といえば、終戦直後のシーンでは、枕崎台風に見舞われる北條家の様子も出てくる。これは、おととしの西日本豪雨や去年の台風19号など、昨今、日本各地であいつぐ風水害を反映して追加されたものだろう。強風で屋根が飛びそうになったり、川が氾濫したり、さらには土砂崩れが起きたりする様子は、戦争の描写以上に、すずさんたちの生きる時代と私たちの時代は地続きなのだと思わせる。自然の脅威に登場人物がさらされるという点では、やはり昨年公開され、大ヒットした劇場アニメ「天気の子」も思い出された(ただ、描写がリアルかどうかでいえば、「天気の子」は、大雨で東京の街じゅうにあふれかえる水が濁っておらず、ことごとく澄んでいることにどうも違和感を抱いてしまったのだが……)。

そんなふうに新たな場面を追加し、細かい描写の積み重ねがあるがゆえ、ラストシーンは元の「この世界の片隅に」以上に胸に響くものがあった。ラストで、原爆投下直後の広島に赴いたすずさんと周平が、なぜあのような行動をとったのか、それまでの場面をいま一度振り返りながらその理由を探っていくと、人間の感情の機微に思いいたる。

「再編集」の意義とは?


私はたまたまこの年末年始、「さらにいくつもの」以外にも、市川崑監督の「東京オリンピック」のディレクターズカット版、東海テレビ制作のドキュメンタリー「さよならテレビ」(土方宏史監督/土は正しくは土に「、」)の劇場版と、既存の作品を再編集したものを立て続けに観た。

「東京オリンピック」は先にエキレビ!でもとりあげたが、同作のディレクターズカット版は、市川監督が2004年、その39年前に公開された本編から20分ほどカットしたものである。一方、「さよならテレビ」は、2018年にテレビで放送された番組に、新たに計30分ほど映像を追加してこの年明けより各地の劇場で上映されている。
「さよならテレビ」については、私はテレビ版も観ているが、劇場版では、スタッフ同士、あるいは出演者とスタッフのやりとりを撮った映像がところどころに追加され、意図的にドキュメンタリーの作為性が強調されるなど、全体的にまた違った印象を受けた。新たに加えられたなかには、テレビで見たらさほど気に留めなかったであろうカットもあったが、映画の一場面になると何やら意味ありげに見えてくるのも不思議だった。このあたり、テレビと映画という各メディアの性質の違いもうかがえ、興味深いところである。

こうした作品をまとめて観ると、映画にとって編集がいかに大切な作業であるか、あらためて実感する。とりわけ「さらにいくつもの」は大幅に場面を追加しているだけにそれが顕著だ。原作と映画前作からさらに世界観をふくらませ、まさに「さらにいくつもの」とタイトルに掲げたとおり、すずさんとその周辺の人々の人生をより掘り下げて描き出そうとした片渕監督の執念には脱帽するしかない。

本作は元の「この世界の片隅に」を観ていなくても十分に作品として堪能できるとは思うが、両作いずれも未見の方はできればあらかじめそちらを観てから(現在、いくつかのオンデマンドサービスで視聴可能である)、劇場に足を運んだほうがより楽しめるのではないだろうか。(近藤正高)
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