〝たけし軍団〟の一員であり、放送作家としての顔を持つダンカン。かつて自身が手掛けた、伝説のテレビ番組『天才・たけしの元気が出るテレビ!!』(日本テレビ系)や『風雲! たけし城』(TBS系列)などの手書きの企画書が発掘され、今回、一冊の書籍『ダンカンの企画書』(8月30日発売/スモール出版)となった。
1980年代半ば~90年代半ばの、現在では考えられない“規格外”なテレビ業界について、また裏方としても携わった師匠ビートたけしの番組について話を聞いた。(前後編の前編)

【写真】ダンカン直筆『風雲! たけし城』説の企画書

――『天才・たけしの元気が出るテレビ!!』など、かつてダンカンさんが放送作家として手がけられた番組の企画書が、実家の物置から大量に発掘されたそうですね。それらが一冊の書籍『ダンカンの企画書』になりました。日本のテレビ史においても貴重な資料だと思うのですが……。

ダンカン 当時の企画書を改めて見て、自分たちは、テレビのすごくいい時代に住まわせてもらったんだなと実感しました。今だったら「この企画、お金かかるからダメだよ」とか「上が納得しないからダメだよ」とか削除されるものばかりだったと思うんですよね。当時、ディレクターの誰かが「いっちゃおうか!」と言えば、現実的に放送する可能性がありました。だから本当に当時のテレビって自由だったんだな~って。他人事みたいですよね(笑)。

――80年代や90年代のテレビ業界は、番組にかける経費も多く使えた時代だったんですか?

ダンカン そうですね、今の4~5倍は使えていました。特番ともなると、ちょっとした映画1本分くらいの……億とか使えましたね。だって、普通に考えてみてくださいよ。
バスを1台借りる、というか何十万円で買って、大きなクレーンを何台も用意する。さらに1日のクレーンのリース代で50万くらいですよ! 車同士のぶつかりあいを撮るとなったら、20台くらい使っているんですよ。それが2時間の特番とかじゃなくて、あくまで特番内の10分くらいの1コーナーで! どんだけお金を使えたの!? ってなりますよね。

――映画が1本撮れそうなくらいの予算があったんですね! 今では考えられません。

ダンカン 実際、『ビートたけしのお笑いウルトラクイズ!!』(日本テレビ)を、当時総合演出のテリー(伊藤)さんが、「これ、映画にした方が面白いんじゃない?」と言ってましたね。

――当時のテリーさんの思い出で印象深いことはありますか?

ダンカン よく覚えているのが、テリーさんとは、毎週、企画会議をしていたんですよ。10人くらいの構成作家が集められて、企画書をコピーしたものをテリーさんに提出。まず書類に目を通す。その後1人ずつ発表する。テリーさんは総合演出でネタが欲しいから揃ったらすぐに見るんですね。嬉しいことに、テリーさんは僕の企画書を見ると、「うーうー」って唸りながら企画書の端っこを食べはじめるんですよ(笑)。「これだ!」って(笑)。
自分の世界に入りこんでいるから、興奮して食べちゃうんですけど、そういう様子を見ると、面白いものを書いてよかったなと思いました。

――食べちゃうとは……めちゃくちゃですね(笑)。

ダンカン テリーさんは、(バラエティ番組の演出で)稲川淳二さんにマムシのプールを泳がせたりした人ですからね。

――現在『アメトーーク』や『ロンドンハーツ』(テレビ朝日系列)などで活躍されている放送作家のそーたにさんが『ダンカンの企画書』にコメントを寄せています。『元気が出るテレビ』で若手の放送作家同士共に過ごしたそうですが、当時の印象は覚えています?

ダンカン もちろん! 最初の印象が身長の高いぼーっとした男で、絶対結婚できない人だなと(笑)。幼児とか誘拐しないだろうかと心配していましたね。そーたにの最初の企画とか覚えてますよ。当時、パチンコ屋さんでは軍艦マーチが基本的なBGMで、パチンコ屋さんの前を通り過ぎると行進する人はいるのか?という企画でした。多分、その頃は年配の方で軍隊に行った方が、まだ多くいらっしゃったので、確かにいるのかなと。実につまらない企画ですが(笑)、印象に残るネタだなとはっきりと覚えてます。

あと、そーたには、僕が東京プリンスホテルで結婚式を挙げた時に、芸能人の方とかもいらっしゃってる中、500円しかつつんで持ってきてくれなかった(笑)。でも、何かうれしかったから“いいよ”って。
元々、そーたにって、名前も漢字表記だったのに、僕の名前を番組のエンディングで見て、「‟ダンカン“がカタカナで目立つから」と、自分も目立つようにとひらがなにしたんですよね。

――そーたにさんは現在、数々の人気番組で放送作家として大活躍されていますけど、当時から片鱗はありました?

ダンカン 今思うと当時から感じてましたね。まあ、そーたにをはじめ、みんなとにかく執念深い(笑)。常に難しい顔をして何か考えてたり、ダメだと言われてもしょげずに他の手を考える。たくましい農家みたいなものです。台風が来て畑がダメになっても、最初からやり直せる人たちです。

――その背景にはダンカンさんの姿が影響しているのでは?

ダンカン そうかもしれませんね。人間は異常なところで生活していくと、それが普通のことだと思うらしいんですよ。当時、テリーさんに「お前ら毎日100本企画考えないとぶっ殺すぞ!」とか言われて、本当に殺されるかと思っていました(笑)。いまの時代じゃアウトだけど、僕は考えることが好きだったので、普通のことだと思って企画を考えてました。

また、たけしさんの、自分で本書いて、映画監督して、自分で出て……って姿を見ていたので、俺も自分で映画の本を書いて自分で出て。周りからは大変だなと思われますが、当然のことだと思ってやっているので、楽でしたよ。
水道橋(博士)なんかもいまだにそうですが、(お笑いの企画などをずっと考えているのは)歯を磨く感覚ですよね。僕も、いまだに毎日ネタ帳を持ち歩いてますし。呼吸しているペースと一緒なんです。

――仕事感覚というより日常という感覚で?

ダンカン 若い頃、自分が考えたことがテレビで放送されるのが気持ちよかったんです。『元気が出るテレビ』の時、たけしさんと麹町の日テレの楽屋で一緒にいさせてもらっていて、「こういう仕事(放送作家)を一生していきたい!」って話したんですよ。たけしさんに、「仕事っていうのは、定年を迎えて、仕事が終わった時にはじめて『仕事をやりとげた』と思うようなことだよ」「だから他の人よりもっとお笑いのことを考えていなきゃいけないんだよ」と言われて、それからずーっとお笑いのことを考えようと思ったんですよ。根本的にお笑いが好きなんでしょうね。

(後編に続く)

【後編はこちら】ダンカンが『元気が出るテレビ』青春時代を語る「たけしさんがくだらねえなあって笑う姿が嬉しくて」
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