40代後半でブレイクするまで、長く不遇の時代が続いた錦鯉の長谷川雅紀。コンビ・錦鯉の“おじさん2人” の波乱の人生が赤裸々に描かれている初の自叙伝『くすぶり中年の逆襲』(新潮社)も現在絶賛発売中だ。
札幌吉本の設立と同時期にお笑い活動を始めた彼が、錦鯉結成までに、どのような芸人人生を歩んできたのか。その軌跡を振り返りながら、お笑い芸人としての矜持を語る(前中後編の前編)。

【写真】40代後半でブレイクしたくすぶり中年・錦鯉の撮り下ろしカット【6点】

――最初に組んだお笑いコンビ「まさまさきのり」は、2011年8月に解散するまで紆余曲折があったそうですね。

長谷川 札幌でお笑いを始めるってときに、高校の同級生の久保田昌樹と組んでオーディションを受けたのが札幌吉本で、僕らが1期生。同期にはタカアンドトシがいました。ただ相方が違う方向性でやりたいというので2000年に一度解散。
それから2年ぐらいピンでやって、また久保田が再結成したいというので上京して、ゼロからスタートしました。でも結果的には久保田が体調を壊して札幌に帰ることになって、2度目の解散。その時点で40歳でした。

――札幌でのピン時代、他の芸人とコンビを組もうと思わなかったんですか?

長谷川 札幌で情報番組のレギュラーを持っていて、食レポをしたり、温泉に行ったりとテレビのお仕事をしていたので、その頃は特に相方の必要性も感じていなかったんです。それに当時の札幌は芸人の数も少なかったので、誰かと新しく組んで、ネタを考えるみたいなことは思わなかったですね。

――私も北海道出身なので当時の状況は分かるのですが、札幌吉本ができるまで、北海道独自のお笑い文化ってないに等しかったですよね。


長谷川 劇場で、生でお笑いを見るなんて文化はなかったですよね。だから手探り状態でした。良くも悪くも先輩がいなかったんですよ。一応関西から来た「笑ハンティング」というお兄さん方はいたんですけど、そこまで自分たちには関与してこなかったんです。

だからタカアンドトシ、アップダウン、解散したBコースなどと、企画や大喜利のお題、集団コントなどを考えていました。大阪とか東京の番組を参考にしながら、自分たちでアイデアを練って。
芸人の頭数がいないので、ローカルですけどテレビもラジオもすぐに出られたんですよ。

――一度解散を言い渡してきた相方と、また組もうと言われて、抵抗感はなかったのでしょうか。

長谷川 久保田が「もう一回やりたい」と言ってきたときに、僕もすぐにやりたいと思ったんですよ。というのも当時30歳で、レポーターを中心に活動をしていたんですけど、何か違うなと思っていたんです。それを強く感じた出来事があって、食レポをやっていたときにカメラマンさんから、「七草がゆの七草を言える?」と聞かれたんです。それに答えられなかったときに、「ちゃんと覚えなきゃダメだよ」って言われて、「芸人なのに七草を覚えなきゃダメなの?」って思ったんですよ。


自分のやりたいことは、面白いことやバカなことをやって笑いを取ることなのに、食レポのダメ出しをされて「あれ?」と思って。そんな時期に、久保田に誘われて、一緒にやっていたときの楽しかった記憶がよみがえったんです。

――上京して、「マッサジル」というコンビ名に改名して再出発を図りますが、その後も約10年間に渡って泣かず飛ばすの状態が続きます。

長谷川 僕の中で暗黒時代というか、自分が思い描いていたものと違っていて、本当に辛い10年だったんです。その10年の間に、「おもしろ荘(※「ぐるぐるナインティナイン日本テレビ系)」の1コーナー「おもしろ荘へいらっしゃい!」)」に2回出てますし、「めちゃイケ(※「めちゃ2イケてるッ!フジテレビ系)」)や「爆笑オンエアバトル(NHK)」などテレビにも出ていたんです。

ちょうどその頃、オードリー小島よしおジョイマンなどがバーッと出ていた時期で、それに乗っかっていけば、そのままマッサジルも行けるみたいに周りから言われていて。
その可能性もあるかなと思っていたんです。ところが「おもしろ荘」に2回出ても何も起きなくて、そこまで乗り切れない。あとはアルバイトとギャンブルという異常な10年間でした。

――乗り切れなかった原因は何だったと思いますか?

長谷川 何とかしなきゃという気持ちはあって、2か月に1回単独ライブをやっていた時期もあったんです。そういう風に自分たちを奮い立たせようとしていたけど、じゃあ根を詰めてやってきたかと言ったら、サボっていたり、楽な方に逃げていったり。「おもしろ荘」のオーディションに受かったネタで「M-1グランプリテレビ朝日系)」にも出て、3回戦まで残ったこともあったんです。


その勢いで、もっとネタを詰めて面白くしようとすれば良かったんですけど、気が緩んだというか。今思えば、それは相方の久保田も一緒で、二人でグダグダしていました。どちらか一人が引っ張って、売れるための戦略みたいなものを考えていかなきゃいけなかったんだろうなと思います。その辺が甘かったというか、ただ面白いと思ったことをやっていただけで、たまたま何度かオーディションに受かっていたという感じでした。

――ネタへの自信はあったんですか?

長谷川 そうですね。お客様には人気がなかったですけど、周りの同業者からは「面白い」と言われていたので、それが希望でもありました。

――再解散をするときに、自分も札幌に帰るという選択肢も考えましたか?

長谷川 考えました。別にテレビに出ている訳でもないですし、年齢も40歳だったので、良いきっかけかなって思いましたよ。そんなときに、過去に情報番組でお世話になっていた放送局からドキュメンタリーのお話がきたんです。「帰省なう(HTB)」という番組なんですけど、せっかくのお話だからと出ました。

――『くすぶり中年の逆襲』によると、錦鯉結成後に相方の渡辺隆さんが「帰省なう」の雅紀さん回を見て、「雅紀さんの本当の魅力、面白さが出ていなくて、ただのオッサン芸人でしかない」と悔しい気持ちになったと仰っていました。雅紀さん自身はどうだったんですか?

長谷川 僕はそこまでマイナスな印象はなかったです。その番組は、北海道から東京に夢を持って行った人を追いかける番組で、過去に内藤大助さん、吉村崇平成ノブシコブシ)さん、バービーフォーリンラブ)など、錚々たる人たちが取り上げられていたんです。そんな全国で名前が知られた中で一人だけポツンと誰も知らない人が出ていたんですよ。

――成功者の中に一人だけブレイク前の無名芸人が(笑)。

長谷川 誰も知らない芸人を、よく使ったと思いますよ。だから起用してくれただけでもありがたかったんです。密着して東京まで追いかけてくれて、帰省もできて、それがきっかけで何年も会っていなかった親にも会えたんです。ただ、こういうドキュメンタリー番組って、ダメな人をリアルに追いかける内容が多いじゃないですか。アイドルでもミュージシャンでも芸人でも、そこから売れた人っているのかなって思うんですよ。いなくないですか?

――確かに心当たりがないです(笑)。

長谷川 たぶん、ダメなところを見たい訳だから、そういう人を狙っているんですよ。だからドキュメンタリー番組に出たら終わりまで言わないけど、そこから売れるのは至難の業だなと思いました。あと、そのお話をもらったときに、自分の中で一つだけ決めていたことがあって、絶対に泣かせてくるなと思ったから、泣くのはやめようと心に誓ったんです。

明石家さんまさんイズムじゃないですけど、芸人が泣くのって嫌かなって。でも、まんまと最後、泣いているんですよ。東京に帰るとき、駅のホームで電車のドアが閉まる瞬間に、母親が買い物袋を渡してきたんです。その中を見たら、おにぎりとサラダが入っていたんですけど、僕が子供の頃に大好物だった、具が納豆のおにぎりだったんです。それを電車の中で食べているときに泣いちゃいましたね。

――確かに感動的なシーンですね。

長谷川 ずっと母親から、「いい加減、芸人を辞めて、就職したらいいんじゃないか」って言われていたんですけど、その撮影のときに「好きなことをやれていいね。もうちょっと頑張ってみれば」と言ってくれて、その言葉を、納豆おにぎりを食べながら思い出したんですよ。ただ、その番組を見たタカアンドトシは、納豆が糸を引いているから腐ったおにぎりかと思ったらしいですけどね(笑)。(中編に続く)

【中編はこちら】錦鯉・長谷川が語るくすぶっても腐らない秘訣「辞めようと思ったことは何度もある」

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