【関連写真】1970年、サンクトペテルブルクでのパーティー中に、クラスメートと踊るプーチン
――「プーチンの正体」でも書かれていますが、ロシアの本音は北方領土を1島たりとも返還する気はない、と。なのに日本の政治家やメディアは過度な期待を抱いてきたのはなぜでしょうか?
きっかけは、プーチンの大統領就任後の2001年3月のプーチンと森喜朗首相(当時)の首脳会談でのイルクーツク声明です。この時、ロシア側は日ソ共同宣言(1956年)が平和条約交渉の“出発点”であることを確認しただけで、共同宣言に明記されていた2島引き渡しは明言していません。しかし日本側はプーチンなら返還交渉の相手として信頼できる、少なくとも歯舞・色丹の2島は返す気だという期待が政界・外務省・学会・メディアの間に強くありました。
私はプーチン政権が領土返還への具体的な言及を故意に回避していることを軍事専門誌やWEBメディアなどでは書いてきましたが、政府でもメディアでも、ほとんどそのことは指摘されませんでした。もちろん領土返還は日本国民の悲願ですが、その難しさをメディアで指摘するのはなかなか難しい“空気”もありました。ロシア側の態度から実際には返還の見込みはなさそうだとは書きづらいわけです。
――そうした日本側の過度な期待はなぜなんでしょう?
交渉という“相手がいる問題”に対して、自らに都合よく考える姿勢がそもそも的確ではなかったのだと思います。ロシア側は日本政府を取り込む目的で、「1島たりとも返さない」とは明言しません。「島を返す」という言質を明らかに回避しながら、日本側が勝手に期待するように「平和条約交渉を進めよう」とチラつかせるわけです。
ロシア側はたとえば「4島返還に固執する日本政府の姿勢が交渉停滞の大きな原因」だとか「島を引き渡したら米国が基地を置くのだろう」などという言い方をときにしてきたのですが、そうかと言って「2島返還で手を打つべきだ」などとは決して言わない。その意味するところは「1島返還すら約束を避ける」ということです。
ところが、日本側は自分たちに都合よく考え、少なくとも2島はかえってくると思い込み、それが政界でもメディアでも定説化しました。首脳会談などのたびに領土交渉が進展しているかのように期待させる記事がメディアでは定期的に掲載されましたが、実際には1ミリも領土返還は進みませんでした。そもそも日本側では領土返還交渉進展のニュースが流れても、ロシア国内ではそんな話は一切ありませんでした。
プーチン政権が領土返還交渉に前向きだと誤解していれば、日本政府としては「プーチン政権と敵対するのは得策ではない」という判断になるでしょう。そのため、プーチン大統領の機嫌を損ねるようなことは避けようとなります。
クリミア侵攻や亡命者暗殺未遂などでプーチン政権が西側各国から批判されても、日本政府は首脳会談を重ね、そのたびにプーチン大統領に好意を示し、首脳間の親密ぶりを強調し続けました。この点で、とくにプーチンとの親密ぶりをアピールした森喜朗元首相や安倍晋三元首相への批判がありますが、彼らがそうした判断をしたのは、そもそも「プーチン大統領は領土返還に前向き」との誤認識が根底にあり、それは外務省も同様です。安倍政権の後期には外務省も「なかなか難しい」との判断に転じたようで、日露交渉も経産省出身の官邸幹部が中心になって進められましたが、外務省もそれ以前はプーチン大統領が2島返還すると考えていました。
――日本では今次のウクライナ侵攻で、プーチン政権の体質への見方がようやく変わった、ともいえそうです。
今まで、ロシアから見れば欧米と違って日本は勝手になびいてくれる相手でした。欧米相手にはフェイクニュースなども駆使した世論誘導工作を繰り返していたのですが、日本はそんなことをわざわざしなくても、領土交渉への期待をチラつかせるだけでよかったのです。
――他にも、ネットカルチャーの中で柔道が趣味の親日家で、力強い指導者として好意的に見られてきた風潮もありました。
ネット世論でいうと、日本では中国の習近平政権に対する警戒心が圧倒的に強く、それに比べるとプーチン政権に対する警戒心はあまりなかったように見えます。中国と対抗するにはむしろロシアとは友好的な関係を結ぶべきという言説もありましたし。でもロシアは民主主義や自由、人権擁護というか価値観への脅威という点ではむしろ中国の側です。
プーチン政権にとって主敵な米国を中心とする西側世界なので、米国の同盟国である日本は明確に敵側になります。ところが日本側の一部では、中国と対抗するためにロシアと手を結ぶとか、少なくともロシアと友好関係を作れば中国とロシアの連携を阻止できるという期待があったようです。しかし、それは非現実的です。
いずれにせよ、日本では一般のメディアを含めて、中国への警戒感が強く、プーチン政権の危険性はそれほど重視されてきませんでした。私は機会があればメディア出演時にプーチン政権の危険性を指摘するように心がけてはきたのですが、おそらく反ロシアに偏向した意見のように受け取った方も少なくなかったのではないかなと思います。
というか、そもそもあまりロシアの脅威への関心があまりなかったのかもしれません。たとえば本書もじつはトランプ政権のロシアゲートが注目されていた2017年頃に一度考えたのですが、当時の出版界は概ね「プーチンは地味なので、習近平をやりませんか?」という反応でした。
――欧米でも「親プーチン」は今も根強くいるのでしょうか。
欧米で厄介なのは、プーチンは極右層に人気があるんです。彼らは極端なトランプ支持者や「Qアノン」などの陰謀論の陣営とも親和性が高い。それはロシアのネット工作のせいでもありますし、自国の政官界のエリート層、エスタブリッシュへの反発から親プーチンになびいている一面もあります。
――そうしたプーチン政権のプロパガンダやネット工作についても「プーチンの正体」で書かれていますが、プーチン本人についてもどこまでが作られたイメージなのかわからなくなってきます。
プーチンの人物像は後から作られたイメージも多く、どこまでは実像かはわかりません。ただ、彼は自分の考えをかなりメディアで公式に発信しています。それはどこまでがホンネかはわかりませんが、彼の発する言葉は、彼が進める強権的な策を正当化するための布石となるよう緻密に計算されています。
その内容は詭弁と欺瞞に満ちたものですが、それでも自己正当化を必ずします。そのあたりの処し方は、じつにソ連共産党的だなと思います。
▽『プーチンの正体』(宝島新書)
著者:黒井文太郎
定価:880円(税込)