1980年代の幕開けとともにデビューし、時代のアイコンとして40年以上を駆け抜けてきた松田聖子。デビュー前、1本のカセットテープから彼女を見出したプロデューサー、若松宗雄氏による『松田聖子の誕生』が新潮新書から7月19日に刊行された。


既に語り草になっているエピソードも含めて、福岡の少女・蒲池法子が強い意志で音楽への道を切り開き「松田聖子」として羽ばたいていく日々が、間近で彼女を支えてきたプロデューサーの視点でつづられ、当時の音楽界の歴史と活気を伝える1冊にもなっている。今明かされる80年代音楽史の秘話とは。

【写真】デビュー前の松田聖子の歌声が収められた実際のデモテープ

     *     *     *

のちに「松田聖子」となる少女のストーリーは1978年から始まる。この年の春、雑誌『セブンティーン』の「ミスセブンティーン・コンテスト」九州地区大会で優勝したのが蒲池法子。ところが彼女は東京での本選を辞退していた。この時、彼女が歌った桜田淳子の「気まぐれヴィーナス」のデモテープを聴いて「すごい声を見つけた!」と思ったのがCBS・ソニーのプロデューサーだった若松氏だ。


1969年にCBS・ソニーに入社し、営業畑から企画畑に転じて4年目だった若松氏。最初の担当はキャンディーズで9枚目シングル『春一番』から15枚目『アン・ドゥ・トロワ』まで文字通り全盛期を担当していたが、彼女たちは1978年春に解散。新たなスターを探してデモテープの山と格闘していた時の出会いだった。

「聖子の声は世界観がはっきりしていたんです。上手い人はいても、世界観を作れる人はほとんどいない。僕は歌はやはり言葉だと思っていて、歌詞の世界をハッキリと表現して伝えられる人でないと、聴き手に響いてこないんです。
聖子の歌は歌詞の世界をすごく鮮明に伝えられる、そういう純粋さがありました。1978年の春に初めて会った時も、世間の雑念が一切混じっていない、思いの突出した存在だなと感じたんです。僕もたくさんのデモテープを聞いてきたけれど、程よく歌えるだけでは売れない。聖子が突出していたのは歌えること以上に、本人の持っているピュアさを歌声に乗せられるところにあった」

山口百恵と入れ替わるようにデビューした聖子、2人のスター性の違いは70年代と80年代の時代の違いにもしばしば例えられるが、若松氏は2人の歌声を「2人とも素晴らしいんだけど、百恵さんの表現は、色でいえばモノクロで映像が展開される感じ。一方聖子の歌は、ピュアで淡いピンクのイメージがしますね」と評する。

デビュー時、有名な話ながら国家公務員で厳格な法子の父は娘の歌手への想いを一蹴。
「ミスセブンティーン・コンテスト」の本選辞退もそれゆえであった。若松氏も度々頭を下げたが首を縦に振らない。「どうやってもダメ。でもダメって言われて引き下がる訳にもいかない。ならば本人の口からも説得してもらうのがいいんじゃないかと」。

電話攻勢や福岡詣での末に、父がついに折れたのが1979年1月。
この間、法子は若松氏に6度にわたって手紙をしたためていた。その時の手紙を今も若松氏は大切に持っているが、ここから『裸足の季節』でのデビューまでさらに1年がかかった。

法子の歌声に賭けた若松氏は芸能プロダクション探しを続けるとともに、福岡にスクールを開いていた平尾昌晃氏のレッスンを法子に受けてもらう。平尾氏も彼女のポテンシャルを認めてくれたが、デモテープしか知らない東京の事務所の反応はいまいち。何とか面接までこぎつけたサンミュージックでも難色を示されたが「お父さんを説得するのもあれだけかかったのだし、私もひきさがる訳にはいかない」との執念も実ってか、同社相澤社長の決断で所属がかなった。父親の許可を得てから半年近くが過ぎようとしていた。


デビュー曲の制作にあたり、若松氏は最初は筒美京平氏への依頼を考えていたが、既に超売れっ子作曲家だった同氏の都合がつかず断念したそうだ。ここで若松氏の脳裏に思い浮かんだのが小田裕一郎氏。作曲:小田裕一郎、作詞:三浦徳子(よしこ)で『裸足の季節』『青い珊瑚礁』を生み出した初期のヒット曲トリオはこうして生まれた。

「(筒美京平さんとの縁がなくて)せっかくなので新しい路線で行ってみようと思って、アメリカンポップスに精通した小田さんにお願いしようと考えましたね。小田さん・三浦さんのコンビと聖子のトリオで新しい歌謡曲の路線が開けたから、その後も多くのクリエイターと共に表現を深めていけたのかもしれない。もし僕が京平さんにこだわっていたら、それなりに売れたとは思うけど『また新しいアイドルが出てきたな』くらいで終わっていたかもしれません。
洋楽のエッセンスを備えてデビューできて、小田さんのメロディーでいろいろな方に注目してもらえたのは、振り返ればいいご縁だったのかなと」

松本隆・財津和夫・松任谷由美・細野晴臣・大滝詠一…綺羅星のごとき作家たちと曲を作ってきたが、特に相性がよかったと若松氏が考えるのは…。

「作詞家なら松本隆さん、作曲家ならユーミン・財津さん・細野さんかな。例えば細野さんは、本来の彼が得意とするサウンドと聖子の淡いピュアなイメージは合わないと思うんだけど、いざレコーディングをすると、彼女は歌をすごくフィットさせてくるんです。どんなサウンドとも融合して、オリジナルの聖子ワールドを作り上げてしまう。そんな特異な才能があったと思います。あと、アレンジャーの大村雅朗さん(1997年没)と出会えたのも大きかったです。どの作家さんも、聖子が売れたからといって忖度して合わせようとしない。それに応えて『今度の曲歌いにくいです』なんて不平を一切言わなかった聖子も見事でした」

若松氏は聖子の1stアルバム『SQUALL』(1980年)から15thアルバム『Citron』(1988年)まで携わった。特に出色の出来だと思うのは、第1作の『SQUALL』、5th『Pineapple』
、7th『ユートピア』(1983年)になるという。

「聖子の自然な感じがこの3作に特に凝縮されていると思います。文字通りデビューしたての『裸足』の感じですね。『ユートピア』収録の『赤い靴のバレリーナ』『マイアミ午前5時』なんか本当に名曲なんだ。それとニューヨークで全曲英語の新曲をレコーディングしたアルバム『SOUND OF MY HEART』(1985年)。発音を何度もダメだしされるなど苦労も多かったけど、このアルバムで聖子のアーティストとしての才にいっそう磨きがかかったと思うんですね」

『松田聖子の誕生』ではこのように、若松氏が携わった全15作のアルバムの制作秘話が詳細に語られ、松田聖子を通じて80年代の音楽界のクロニクルとして読むこともできる。

1本のデモテープをきっかけに、公私にわたる激動の42年を芸能界で駆け抜けてきた松田聖子。若松氏が彼女をプロデュースしていた期間は10年弱であったが、44年前に感じ、今も変わっていない聖子の魅力とは何だろうか。

「人を惹きつける力。そして歌の世界を自分のものにしてしまう力ですよ。その根底にあるのは、僕が44年前にも感じた歌に対する真摯さ、多くの人に歌を届けたいという思いですよね。その気持ちが実って沢山のヒット曲に恵まれ、ここまで来られたんだと思います」