競馬好きなら誰もが知る存在。しかしお笑い芸人としては、2011年、12年と「R-1ぐらんぷり」(フジテレビ系)決勝に連続出場して以降、本人曰く「迷走していた」という男が、11年振りに単独ライブ「漫談スタイル」(10月4日、「座・高円寺2」にて)を敢行する。
競馬界ではノリにノッている今、あえて「お笑い」に正面から向き合ったキャプテン渡辺に話を聞いた。(前後編の前編)

【写真】100万円馬券的中で話題・キャプテン渡辺

8月21日に札幌競馬場で開催された中央競馬の重賞レース「札幌記念」(GⅡ・芝2000メートル)で、約10年半ぶりにキャプテン渡辺の名前が全国区のニュースの見出しで踊った。レギュラー番組『ウイニング競馬』(テレビ東京)のYouTube企画で、3連単152.1倍の馬券を7000円分購入しており、なんと106万円4700円もの払い戻しを受けたのだ。

「静岡の実家に帰るタイミングで、新幹線に乗って携帯で中継を見てました。ちょうど三島を通過したぐらいでしたかね(笑)。自腹1万円で100万円を当てる、っていう無茶振り企画だから、正直こっちも当たるとは思ってなくて。
『ホントに来た!ホントに来た!』って慌てちゃって。車内だから騒げないけど、心の中では絶叫しまくってましたよ(笑)」

一躍時の人となったキャプテン。今でこそその選馬眼は競馬ファンからも一目置かれる存在だが、競馬に熱狂してきた20余年はほとんど負け続きの暗黒期だった。ようやく2019年から年間収支がプラスに転じ、現在は3年連続でキープできているというが、全く当たらず痛い目を見続けた歴史は、本人の挫折の歴史ともまるまる重なっている。

千代の富士、長州力、高校野球の甲子園、極真空手、ダウンタウン。子供のころからいろんなものに憧れた。
そして高校を卒業した渡辺少年が選んだのは、大好きなプロレスの道だった。

「UWFインターナショナル(※高田延彦や桜庭和志らが所属したプロレス団体。96年解散)の練習生になったんですよ。お笑いも大好きだったけど、当時は『プロレスラーを引退してからでもお笑いタレントになれるだろ』ってバカみたいなことを考えてたんで。でも、入って2カ月のスパーリングで腕の骨を折って入院。戻っても、練習生が僕1人だけだったから、雑用も全部やらされる。
重た~いご飯の釜とかを毎日運んだり。折れた骨は半年以上くっつきませんでした。スクワットや腕立て腹筋みたいな基礎練習はいいんですよ。まだ若かったから、やっていればこなせてしまう。でもスパーリングはとにかくきつかったです。腕が完治して、久しぶりにスパーしたら、もう全然ついていけませんでしたね。
それで入って1年2カ月で夜逃げしました(苦笑)」

「やっぱりお笑い芸人になろう」。そう決意して、大阪にある放送系の専門学校に入学した。それと同時に、20歳を機に競馬、パチスロも覚えた。学校は2年で卒業したが、校内で組んだお笑いコンビは卒業とともに相方が辞め、解散した。

「24歳まで大阪にいましたが、週末に競馬して、それ以外の日はパチスロ。『大花火』って台が楽しくて。
借金まみれでしたね。『これじゃいかん!』と思って、東京にいた学校の先輩を頼ってもう一回上京したんです。売れるからには東京に行くしかない、と思って、その先輩とコンビを組んで。でも、東京にもパチスロはあるんですよ(苦笑)」

結局ギャンブルから足を洗うことはなく、ほどなくそのコンビも解散。組んでは別れ、という売れない芸人街道をまっしぐらにひた走った20代だった。そしてトリオ芸人「キラッキラーズ」を2010年1月に解散し、以後、ピン芸人・キャプテン渡辺として活動することになる。
もう35歳、決して若手とは言えない年齢だ。しかし、人生は何が起きるかわからない。

「僕なんて、トリオの時は一番『じゃないほう芸人』だったんですよ。でも、ピン芸人になってからは順調でしたね。当時やってたのが、パチンコの『海物語』シリーズに出てくるキャラに扮してパチンコあるあるを言うネタで。まあウケました。よくライブで一緒だったじゅんいちダビッドソンなんかは、『当時のキャプテン以上にウケてるピン芸人をいまだに見たことない』って言うくらいですから(笑)。トリオ解散直後の『R-1』は準決勝まで行って、その翌年に、決勝に残れました。ある意味では、売れない時代のどうしようもない日常が、今の僕の漫談のネタの原点になってるんですけど、それがウケて翌年も2年連続で『R-1』決勝に残れて。こりゃもう売れるだろ、って自分でも思ってました(笑)」

だが、そのままスター芸人になれるほど、お笑いの世界は甘くはなかったのだ。(後編に続く)

【後編はこちら】SMA芸人・キャプテン渡辺が語るハリウッドザコシショウという存在「芸人としての理想」