【芸能界と格闘技界 その深淵】#番外編


 曙太郎(下)


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 K-1プロデューサーだった谷川貞治が、2003年晩秋、東関部屋の部屋付き親方だった曙を突如訪ねたのは、以前日刊ゲンダイで連載していた「大晦日の真実」で詳述したように「大晦日にボブ・サップと戦ってほしい」という希望があったからである。


 本来なら「マイク・タイソン対ボブ・サップ」という一戦が決まりかかっていたが諸事情により断念。

そこで谷川は、マイク・タイソンに代わる大物として、曙に白羽の矢を立てたのだ。


 谷川貞治が「手応えはあった」と語る理由は次の3つ。①師匠である東関親方(元高見山)との関係が修復不能なところまできていたこと。②親族にハワイの食料品や雑貨を売る店舗を赤坂にオープンさせたが、経営は赤字続きだったこと。③「興行本部長」としてチケット販売に苦労していたこと。これらに加えて、ハワイの先輩力士である小錦が「おまえには絶対に相撲協会の体質は合わない。

俺みたいにタレントになれ」と再三誘いをかけていたことも後でわかった。


 谷川のもくろみは的中する。突然の来訪にもかかわらず、曙は相撲協会を退職、K-1転向を決意したのだ。「奥さんの後押しも大きかった」と谷川が振り返るように、最も近くにいる妻からすれば、興行本部長をこなしながらの部屋付き親方は、我々が想像する以上に激務だったのかもしれない。


 曙のK-1参戦は日本中がひっくり返る大ニュースとなった。師匠の東関親方も相撲協会も「よくも、恥をかかせやがって」と激怒。

かつて、テレビ局のスポーツ部に勤務していた人物は、当時の東関親方の様子を次のように見ている。


「高見山っていう人は本当に人格者で、私は今も大好き。でも、このときは本当にむすっとしていたし、つらそうでもあった。あまり人と会いたがらなかった。誰かと会って口を開けば、弟子への悪口になるのがわかっていたからでしょう」


■瞬間最高視聴率43%を記録


 角界を去りK-1に参戦した曙は、1カ月半というわずかな準備期間で、大晦日のナゴヤドームのリングに立った。しかし、付け焼き刃で成功するほど甘い業種でもなく、ボブ・サップの右ストレートをまともに食らい1R・KO負け。

K-1デビューを飾ることはできなかった。それでも、瞬間最高視聴率43%を記録し、大晦日に放送した民放のテレビ番組の中で史上初めて、NHK紅白歌合戦を抜いたのは、誰あろう、曙の功績以外何ものでもない。


 その後もK-1のリングに立ち続けた曙だったが、結果は芳しいものとは言えず、角田信朗に判定勝利を収めた以外はすべて敗北。総合格闘技ルールにおいてもホイス・グレイシー、ボビー・オロゴン、ドン・フライに立て続けに敗れるなど、転向は成功とは言い難かった。しかし、バックヤードに現れた彼を見た筆者は、意外にサバサバした彼の様子を感じ取ってもいた。「チケットを売り歩くことを思えば、何のことはない」と思っていたのかもしれないし、何より、自由を謳歌していたのではないか。


 K-1転向後、角界関係者との縁はほとんど切れたかに見えたが、唯一切れなかったのが貴乃花との絆だった。


 K-1創始者の石井和義は、曙対ボブ・サップのゲスト解説に、当時、一代年寄として相撲協会に残っていた貴乃花親方にオファーすると、意外なことに快諾されている。そこには、相撲協会も屈服させられるほどの、斯界の実力者の示唆もあったというが「それだけでもなかったはず」と筆者は思う。


 長年のライバル関係で培われた友情、長野五輪の開会式で、土俵入りの代役を買って出てくれた恩義、これらを貴乃花は忘れていなかったとするのは、当たらずとも遠からずではないか。


(細田昌志/ノンフィクション作家)