【死ぬまでにやりたいこれだけのこと】


 神野美伽さん(歌手/59歳)


 演歌からジャズまで幅広いジャンルを歌いこなす神野美伽さん。8月には、コロナ禍前から取り組んだブギでステージを飾る。

これからやりたいことを聞いた。


  ◇  ◇  ◇


 今年でプロとしてデビューして42年目になります。あっという間でしたね。でも、考えてみたらやりたいと思ったことはこれまでほとんどやってきたと思っています。


 振り返ってみると、「冬のソナタ」がブームになる前からTV番組の取材で韓国に行ったのを機に、1999年に韓国語のアルバムを出すことができたことは私の人生に大きな影響を与えました。


 その後はニューヨークへ。次にジャズの世界に飛び込んでみたら、グラミー賞受賞アーティストや素晴らしいミュージシャンと出会うことができた。そして、着物を着てニューヨークで演歌を歌いました。そのことで、演歌を歌うことが私の一番の個性なんだって、改めて強く感じることもできました。そのおかげで仕事の幅が広がり、日本に帰ってきてからの私はガラッと変わったと思います。それからはジャズクラブで歌うことが多くなりましたね。ジャズのミュージシャンからオファーをいただき、コンサートではゲストボーカルとして私が入ったりすることも増えました。


 そういう外国で歌う経験をしたことは日本の演歌にとってもプラスになる、すごく必要なことだと今も思っています。日本にいるだけだと、残念なことに、演歌はある程度、限られた年代の方だけが聴く音楽みたいになってしまっている。それは演歌が持つ大きな可能性を考えるとあまりにもったいないです。


 演歌もそうですし、笠置シヅ子さんが残してくれたブギもそう。ブギは敗戦国となった日本がアメリカに憧れ、日本のジャズをつくりたいという思いで服部良一さんがつくり上げた音楽。私はこのブギにもっと可能性があると思っています。


■長年歌ってきた「落としどころ」として実現したい


 ブギという音楽に関しては、6年前に初めて大阪で舞台を上演するまではまったく知らない世界でした。もちろん笠置シヅ子さんのことは存じ上げていましたが、お会いしたこともなければ、ライブを見たこともなかった。知っていることといえば「東京ブギウギ」など有名な3曲で、歌謡番組で歌ったことがあるくらいでしたね。何年も前に「ブギの舞台をやりませんか」とオファーをいただいた時も、最初は「どうして私が?」と迷いました。


 初演の時は笠置さんに近づこう、近づこうと必死で。どんなふうに歌って踊っていいかわからなかったですからね。

それでも歌い込んでいくうちに、ずうずうしいかもしれませんが、もう自分の歌みたいになって(笑)。ストンと自分の中に落ちてくる感覚があった。だから、8月にやる再演で楽しみなのは、歌がさらに変化していることと、笠置さんという人間像がより自分の中に入っていると感じることですね。それくらい厚かましくないとこの役はできないですね(笑)。


 そのブギをジャズの本場といわれるアメリカではなく、日本の文化にも興味を持ってくれる人がたくさんいるヨーロッパに持っていけたらって考えているんです。これは歌い手としての私の楽しみでもあります。それを実現して、長年歌ってきたことの「落としどころ」として、人生を大満足で終えられたらって思っています。


 こんな話は普段は心の中にしまっておくか、雑談で夢を語る時だけにしておこうかと思っていたけど、思い切って口にして、少しでも目標に近づけたらと。プロとして仕事で歌うことはもちろん大事です。その基本なしで夢を語れないけど、40年やってきた積み重ねがあるので、人との縁、それから経済的なものも全部きれいに「落としどころ」のために集約できればと思っています。


 フランスとかイギリスとか、それも、どんな場所で、どんなふうにやるのかを、これから考えなきゃいけないですね。


 海外でやってみたいという思いは由紀さおりさんの影響もあります。

由紀さんもピンク・マルティーニとの出会いをきっかけに、歌手としての人生が広がったと思うんです。



演歌の持つ可能性をもっと追求

 ピンク・マルティーニと一緒につくられたアルバム「1969」を聴いてそう感じました。由紀さんはアーティストとしてしっかりと、日本人ならではの揺るぎないものを持っていらっしゃる。どこかの国の流行に媚びたり流されたりせず、ご自身の軸が変わっていないからこそ、私自身を強く持つことができるんだと思います。


 由紀さんはスキャットを歌い、叙情歌や童謡も歌い、演歌もこなし、ピンク・マルティーニともコラボしている。海外でもたくさん歌ってらっしゃる。私が大切にしてきたのは演歌ですが、笠置シヅ子さんが残してくれたブギをもう一度、自分の歌として表現し、いろんなところで歌いたい。それをやるのに残された時間はそんなにありません。できれば、来年には何かしら取り組んでいきたいですね。


 そんなすごくアクティブに活動したいと思っている一方で、静かな暮らしも求めていきたいですね。でも、それはもう少し先でもいいかな。


■40年以上東京暮らし、いずれ2拠点生活を


 40年以上、東京で暮らしていますが、実は京都の嵐山と札幌にも家があります。

体力があるうちは2拠点で暮らすのもいいなと。私は元々、都会の賑やかな場所が向いているみたいで、病院など生活に必要なものが揃っていて、それでも仕事を忘れられる場所がいいなって思います。


 東京と同じものが2つの家にもすべて揃えてあるので、準備は万全なんです。ベッドの硬さからシーツ、ドライヤー、洗濯機まで全部同じ。私は本当に必要なものしか持たない主義です。仕事の衣装は多いですが、決まった収納スペースに収まる分だけ。2年着ていない服は人にあげたり、新しく買ったら前のを手放したり。どこに何があるか、数百枚の着物から小物まですべて把握しています。メガネの置き場所は忘れたりするのに、整理整頓だけは昔から変わらないですね(笑)。夫も私と同じタイプです。夫婦2人で京都と札幌を行ったり来たりして暮らすのが今の私たちの一番の楽しみです。


 この夏はブギウギに全力投球です。

6年前の大阪の初演からこの舞台を東京に持っていきたいという話はありました。19年末に大阪で初日を迎えたのですが、千秋楽あたりから日本中が一気にコロナ禍になり、東京での計画は立ち消えになってしまった。そんな経緯もあってコロナ禍が落ち着き、他のコンサートが復活した後もこの舞台が忘れられなくて。


 再演につなげようという思いで笠置さんと服部先生の曲を全曲、自分のアルバムにしようと試みたりもしました。これがまた大変で。日本コロムビア管理の楽曲を他メーカーが全曲収録することはできない。それでも粘り強く交渉しているうちに、朝ドラ「ブギウギ」の放送が始まって、笠置さん関連の本や音源が一気に世に出てきて、コロムビアからも次々リリースもされて。


 主演の趣里さんも笠置さんのミニアルバムを出された。その流れに乗ってもう一度交渉したら、なんとスルッと企画が通ったんです。時の運ってあるんだなってつくづく思いますね。


 東京での再演までの6年間は決して無駄じゃなかったと思いました。この間、笠置さんの歌をコンサートやライブで歌い込みました。

もう借り物ではなく、完全に自分の中に入ったという実感があります。そんな絶妙なタイミングだからこそ、またイチから舞台の稽古ができるんだと感じています。これ以上遅くなると自分がしんどくなるギリギリのタイミング。まるで熟成肉みたいに、うまいこといけたかなと思いますね(笑)。この年になって自分の人生に感動できるなんて、のんきな話だと思われるかもしれませんが、ありがたいですね。


(聞き手=浦上優)


▽神野美伽(しんの・みか) 大阪府出身。1984年に演歌歌手としてデビュー。「浪花そだち」がヒットし87年に紅白出場。韓国語の曲やジャズにも挑戦し、海外でも精力的に活動。キングレコード所属。


編集部おすすめ