「いだてん」第40話「バック・トゥ・ザ・フューチャー」が放送されました。

戦後、敗戦国ゆえに参加できなかった1948年ロンドンオリンピックを経て、日本は1952年ヘルシンキオリンピックに戦後初参加を果たします。
そこから東京での初開催に向けて準備を進めていくわけですが、まーちゃんの夢に協力し、オリンピックのために東京都知事にまでなったのが東龍太郎でした。

東龍太郎、オリンピックのために医師から都知事へ。「いだてん」...の画像はこちら >>


東龍太郎

■医師として活躍する傍ら、スポーツ界にも尽力

東龍太郎は大阪船場で代々薬屋を営む家に生まれ、父・藤九郎は軍医などを務めたのちに実家で病院を開業。龍太郎の叔父もまた医師で、龍太郎の兄弟2人も医師という医者一家でしたが、龍太郎と弟たちは「スポーツ三兄弟」と呼ばれるほどスポーツ分野でも活躍した兄弟でした。

龍太郎は天王寺中学校在学中にボート競技に出会い、上京して東京帝国大学に入学してからもボート部の選手として活躍しました。その後、イギリスのロンドン大学への留学を経て教授に就任した龍太郎は、日本のスポーツ生理学のパイオニアとなります。

ちなみに、弟の東俊郎もボート選手であり、ロサンゼルスオリンピックには選手として参加しています。
のちに国際スポーツ医学会会長を務めるなど、スポーツ医学者として活躍しています。

その龍太郎がオリンピックに直接関わることになるのが、戦後わずか2年の1947年のこと。日本体育協会会長、さらに日本オリンピック委員会委員長を務め、さらに1950年以降はIOC委員を務めることになるのです。

スポーツに造詣が深く、スポーツ生理学の草分け的存在といっても、それは医師としてのこと。スポーツ界の重要な地位に就くなんて初めてのことでしたが、周囲におされて戸惑う間もなく就任することになったのです。

■オリンピックのために東京都知事に

人柄がよく、生真面目な正確だったという東龍太郎。
なんとなく周りに押し上げられる形でIOC委員になり、オリンピック開催のために尽力することになりましたが、今度はさらに思いもしない舞台へ押し上げられます。

1959年、田畑政治から、「オリンピックのために東京都知事選に立候補してほしい」と頼まれるのです。

IOC委員や日本体育協会会長として活動してきたとはいえ、龍太郎は医師・学者です。今まで政治に関わろうなどと思ったことすらなく、むしろ政治には関わりたくないと思って生きてきた龍太郎。当然田畑の頼みに「うん」とは言えません。龍太郎の家族も彼の性格をよく知っていますから、猛反対して田畑に直談判しに訪れます。


しかし、この行動が逆に龍太郎に都知事選出馬を決意させることになったのはドラマの通り。オリンピックのために東京都知事になることを決意するのです。

こうして、見事都知事に就任した龍太郎は、1959年から1967年まで2期8年の間東京都知事を務めあげます。

とはいえ、政治は未経験の龍太郎。実は東京オリンピックの立役者となったのは副知事の鈴木俊一であるともいわれます。そのせいで、「東副知事・鈴木知事」と揶揄されることも。


それでもオリンピック開催に向けて東京のインフラ整備に邁進し、わずかな期間で東京を大改革。東京が都市として発展する一方で、都市開発が急速に進められたことで住民たちからは批判の声もありました。オリンピック開催のおかげで高度経済成長を果たしたものの、そのせいで公害問題が続出。水不足に対する「雨が降らないからだ」発言で批判も浴びたことで知られますが、その陰では都知事として上下水道の整備やダムの取水工事など、水利政策に尽力していたのです。

オリンピックのために東京都知事になった東龍太郎。東京オリンピックを開催させるために活躍しましたが、その後の公害問題、汚職事件で住民の反発を招き、引退することになります。


オリンピックに関わらなければこんな苦労をすることはなかったかもしれない……。「いだてん」は最終章に突入しましたが、まーちゃんの頼みで都知事となった東龍(とうりゅう)さんの苦労はどのように描かれるのでしょう。

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