前回の記事
実は心眼の使い手だった!?新選組の独眼竜「平山五郎」の生涯【六】
時は幕末・文久三1863年、会津藩お預かりとして京都の治安維持に活躍していた新選組(しんせんぐみ)。
しかし、その内部では芹沢鴨(せりざわ かも)率いる水戸派と、近藤勇(こんどう いさみ)率いる試衛館派に分裂しており、権力闘争に明け暮れていました。
そんな中、芹沢のブレーンであった新見錦(にいみ にしき)が試衛館派によって粛清され、水戸派はジワジワと追い詰められていきます。
水戸派の幹部として活躍してきた隻眼の剣術家・平山五郎(ひらやま ごろう)は、相棒の平間重助(ひらま じゅうすけ)と共に芹沢を守り抜くため、試衛館派の罠と知りながら土方歳三(ひじかた としぞう)の主催する宴席に出向くのでした。
■酒と美女とおべんちゃら……罠に落ちた五郎、あえなく泥酔
9月16日は朝から鬱陶しく雨が降っていたので、宴会は申七つ(午後4時ごろ)に開かれました。会場は島原の角屋(すみや)で、芸妓を総揚(そうあげ。全員集合=貸し切り)にしての大宴会だったそうです。
「さぁさぁ芹沢先生……お待ちしておりました。平間さん、平山さんもどうぞ奥へお上がり下さい」
満面の笑みで出迎えた土方に促されて芹沢一行が着席すると、飲めや歌えやのどんちゃん騒ぎが繰り広げられました。
(……やはり、腕の立つ連中は来ていない……俺たちが逃げ出した場合に備えていたな……)
場内を見渡した五郎はそう感じましたが、芹沢一行が角屋に入った≒逃げ出すリスクが下がったと連絡がいったのか、次第に途中参加してきました。それでも来ないメンバーは、やはり「市中見回り」の名目で万が一に備えているのでしょう。
「あれぇ~?どうしたんですか平山さん、全然お酒が進んでいないじゃありませんか?ここは私がお酌致しましょう……もちろん『呑んで』いただけますよね?」
「……む」
(……呑むしかないな……)
眼が全然笑っていない土方にお銚子を突きつけられた五郎は、薄気味悪さを断ち切るように盃を突き出します。
「いやぁ~平山さんのご活躍は京都の市中でも(悪い意味で)有名ですよ?横暴な大阪力士や悪徳商人を懲らしめ、鉄砲を持った強盗にさえ怯まず斬り込んでいった(無謀な)雄姿、一目拝みたかったなぁ~」
「あ、いや、その……」
たとえ見え透いたお世辞であっても、言われ続けていると悪い気はしないもの……両肩両膝にしなだれかかる美女に囲まれ、耳に心地よいおべんちゃらのオンパレード……気づけば五郎は、つい酒を飲み過ぎて泥酔してしまいました。
■無防備に寝入ってしまった三人、忍び寄る刺客の魔手
(おい、この馬鹿……芹沢先生をお守りするんじゃなかったのか?!)
平素からあまり酒を嗜まなかった重助は、芹沢までもが泥酔(こちらは平常運転)してしまったので、宴会を早々にお開きとして、芹沢&五郎を屯所(八木家)に連れ帰ります。
「お帰りなさいまし……あらまぁ」
暮れ六つ(午後6時ごろ)に屯所へ担ぎ込まれた芹沢&五郎を出迎えたのは、芹沢の愛妾・お梅と、五郎の馴染みである桔梗屋のお栄(えい)、そして重助の馴染み・輪違屋の糸里(いとさと)。
「あぁ重かった……とりあえず、二人を寝所へ運び込もう」
芹沢と平山を奥の十畳間に運んでそれぞれのパートナーに任せ、疲れ切った重助はとりあえず、玄関左手の部屋でお栄と寝ることにしました。

「疲れたから、とりあえず休もう」
「このままじゃまずいが、二人を見捨てて逃げる訳にも行かないし……見捨てて逃げるにしても、少し休もう……」
善後策を考えている内に、日頃の疲れと慣れない酒によって深く眠り込んでしまった重助。そして夜は更けていき、ガラ空き状態となっていた屯所に、刺客の魔手が迫るのでした。
■ついに屯所へ刺客が襲撃、芹沢&五郎の最期
刺客が屯所(八木家)を襲撃したのは、その未明。八木家住人の目撃談によると刺客は4~5名ほどで、メンバーは証言者によって土方、山南、沖田、藤堂、原田左之助(はらだ さのすけ)、御倉伊勢武(みくら いせたけ)のいずれか、あるいは全員かそれ以上(外周を包囲していた?)とも考えられます。
乗り込んだ刺客は、勝手知ったる暗闇の中を一直線に芹沢と平山が寝ている奥の十畳間へ直行。間もなく女の悲鳴が響き渡ると、重助は慌てて跳ね起きました。
「五郎!芹沢先生!」
駆けつける重助に気づいた刺客は、その一部をこちらへ差し向け、重助と数度の斬り合いに及びます。
「おのれ、今はこれまで!」
二人の救出を断念した重助は踵を返すと庭から塀を乗り越えて屯所から脱出、そのまま消息を絶ってしまいました(馴染みの糸里は既に逃走)。

刺客によって暗殺されたお梅(イメージ)。
……やがて剣戟の響きもやんで、「もう大丈夫かな?」と出てきて屯所を見て回った八木家住人によれば、奥の十畳間では芹沢鴨とその愛妾・お梅が斬殺されていました。
五郎の馴染みであったお栄は、ちょうど小用に立っていて助かったそうですが、一説にはお栄と馴染みだった原田左之助が助けたとも、あるいは最初から(原田の属する試衛館派に通じて)刺客を手引きしていたとも考えられています。
■エピローグ・受け継がれる尊皇報国の志
それにしても、芹沢がただ斬り殺されているだけなのに対して、五郎の死体が斬首されているのは異常に感じられます。
わざわざ首を斬り落としたいほどに憎まれていたのか、あるいはよっぽど(何度刺しても斬っても)死ななかったのか、もし後者だとするなら、芹沢を守りたい執念がそうさせたのかも知れません。
「先生……七生報国(※)の教え……必ず、守ります……」
(※しちしょうほうこく。七度生まれ変わっても国に報いる=奉公する精神)
翌朝、何食わぬ顔で帰ってきた近藤勇らは屯所の惨状にわざとらしく驚き、芹沢の死を大げさに嘆き悲しみました。
「これは長州藩の仕業に違いない!そうに決まっている!(棒)」
「尽忠報国の士である芹沢先生のご遺志を、我々が引き継ごうではないか!(棒)」
かくして文久三1863年9月18日、芹沢と五郎の葬儀が盛大に執り行われ、壬生寺(現:京都府京都市)に葬られました。

「先生、すみません……」水戸派最後の一人・野口健司の切腹(イメージ)。
かくして新選組における水戸派は壊滅、ただ一人残った野口健司(のぐち けんじ)も同年12月27日に切腹させられ、新選組は試衛館派に完全掌握されたのでした。
芹沢の尊皇思想に感銘を受けながら、同志であった筈の試衛館派との権力争いに命を落とした五郎たちの無念が、その志を受け継ぐ者たちによって、正しく晴らされることを願います。
【完】
※参考文献:
永倉新八『新撰組顛末記』新人物往来社、2009年
箱根紀千也『新選組 水府派の史実捜査―芹澤鴨・新見錦・平間重助』ブイツーソリューション、2016年
流泉小史『新選組剣豪秘話』新人物往来社、1973年
日本の文化と「今」をつなぐ - Japaaan