ヒゲむじゃらの怖い顔をしたおじさんが剣を持って睨んでおり、名札には「鍾馗(しょうき)」とありますが、いったい何者なのでしょうか。
■鍾馗のルーツは唐王朝・玄宗皇帝の見た不思議な夢
今は昔、海を隔てた中国大陸に唐王朝(とう。武徳元618~天祐四907年)が栄えていた時代のこと。第6代皇帝・玄宗(げんそう。垂拱元685~上元二762年)が瘧(おこり。マラリア)の病を患い、寝込んでいた時のことです。
ある晩、高熱に魘(うな)された玄宗が不思議な夢を見たのですが、宮廷の中を小鬼が暴れ回っていたところ、後からやって来た大きな鬼が小鬼を捕まえ、喰い殺すというものでした。
小鬼を喰い殺す大きな鬼。歌川国芳「鍾馗」江戸時代
玄宗が夢の中で「そなたは何者じゃ」と尋ねたところ、大きな鬼は身の上話を始めます。
「それがしは姓を鍾、名を軌と申し、終南県(現:中国陝西省)の出身でした。かつて建国したばかりの唐王朝に仕官するべく科挙(かきょ。官吏の採用試験)に受験したものの、あえなく落ちてしまいました……」
「一族から大きな期待を寄せられて故郷を出ておきながら、家名を汚してしまったことを恥じて自決したのですが、怨みを遺して死んだために鬼となってしまったのです……」
「そんなそれがしを高祖(唐の初代皇帝・李淵)陛下は大層憐れまれてご供養下さり、無事に成仏することが出来ました。
話が終わったところで目が覚めた玄宗は、気づくと熱が下がって全快していました。これはきっと、自分の身体(宮廷)に巣食っていた病魔(小鬼)を、鍾馗が退治してくれたことを意味していたのでしょう。
この夢に感じ入った玄宗は、当世随一の画聖・呉道玄(ご どうげん)を招聘して鍾馗の話を描かせました。すると、そっくり夢で見たままの絵姿に仕上がったため、これを魔除けとして臣下に配り、毎年正月になると各家の門扉に貼らせたそうです。
■各地に広がり、現代に受け継がれる鍾馗信仰
その後、鍾馗の絵姿を飾る風習は(当時絶頂期にあった唐王朝の影響力によって)東アジア各地に広まり、日本では奈良時代末期から伝わる鐘馗寺(しょうきじ。現:愛媛県松山市)の本尊や、平安時代末期に描かれた辟邪絵(へきじゃえ。
奈良国立博物館蔵「国宝 辟邪絵 鍾馗」12世紀
鍾馗の絵姿を飾る時期が正月から端午の節句に変わったのは、気温がどんどん上がる初夏は昔から疫病の蔓延しやすい季節だったため、鍾馗の活躍を期待しての事でしょう。
中国では17世紀の明(みん)王朝末期から清(しん)王朝初期にかけてだそうで、日本では江戸の幕末ごろ(19世紀)に絵だけでなく、五月人形(主に関東)や鬼瓦(主に関西)などを飾るようになりました。
そして平成二十五2013年、日本で初めて鍾馗を御祭神として祀る鍾馗神社が若宮八幡宮社(京都府京都市)の境内に創建され、ついに日本の神様の一柱(※はしら。神様を数える単位)となったのです。
5月5日は子どもの日。
※参考文献:
島尾新ら編『写しの力―創造と継承のマトリクス―』思文閣出版、2014年1月10日
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