令和二(2020)年5月12日、豊臣秀吉(とよとみ ひでよし)が築いたとされる「京都新城(きょうとしんじょう)」の遺構が京都仙洞御所(京都市上京区)より出土したと発表されました。

これまで史料が少なく、遺構も確認されていなかったため「幻の城」とも言われて来ましたが、今世紀最大とも言われる今回の発見によって、研究が大きく進むことが期待されています。


ところでこの京都新城、いったいどんな城なのでしょうか。

■せっかく秀頼のために築いたのに……

時は豊臣政権時代の文禄四(1595)年7月15日、秀吉が甥である関白・豊臣秀次(ひでつぐ)に切腹を命じた事により、それまで関白の屋敷として使っていた聚楽第(じゅらくだい)に、何となくケチがついてしまいました。

そこで聚楽第はさっさと破却して、新しく生まれたばかりの嫡男・拾丸(ひろいまる。後の豊臣秀頼)に新しい住まいを与えようと思い立ちます。

今世紀最大の発見!?豊臣秀吉が溺愛する秀頼のために築いた「幻...の画像はこちら >>


拾丸=豊臣秀頼(左)と豊臣秀次。Wikipediaより。

※昔から、秀吉は拾丸に関白の座を譲りたい一心で、邪魔になった秀次を陥れ、切腹に追い込んだと言われていますが、我が子のためなら、天下のあらゆる楽しみを聚(あつ)めたとまで言われた豪華絢爛の聚楽第をあっさりと破却してしまうあたり、秀吉の溺愛ぶりが感じられますね。

さっそく慶長二(1597)年正月から徳川家康(とくがわ いえやす)をはじめ関東の諸大名を動員して城普請を命じました(現時点でこそ臣従しているものの、油断のならない家康たちの力を削ぐ目的もあったのでしょう)。

途中で計画変更もありましたが新城は5か月ほどで完成し、同年9月に秀吉父子が入居。ここで元服した拾丸は晴れて豊臣秀頼と称するのでした。

ちなみに、現代では便宜上「京都新城」と呼ばれていますが、当時の人々はこの城を「太閤御屋敷」「太閤上京屋敷」などと呼び、秀吉の没後は「秀頼卿御城」「新城」「京の城」と呼んだそうです。

きっと(秀吉の性格上、間違いなく)聚楽第にも引けを取らないか、それ以上に豪華絢爛な城だったことが察せられるものの、与えられた当の秀頼が住んでいた期間は短く、秀吉が慶長三(1598)年8月18日に亡くなると、その遺命によって秀頼は大阪城に入りました。


今世紀最大の発見!?豊臣秀吉が溺愛する秀頼のために築いた「幻の京都新城」が発掘される


結局、秀頼は大阪城に。

その代わりに秀吉の未亡人である高台院(こうだいいん。北政所、おね)が入ったため「高台院屋敷」と呼ばれ、寛永元(1623)年に没するまで二十数年にわたって使われます。

高台院の没後は甥の木下利房(きのした としふさ)が住んだものの、寛永四(1626)年に第108代・後水尾天皇(ごみずのおてんのう)が譲位の意向を示された際、その仙洞御所(退位された天皇陛下の御所)を建てるために解体されたのでした。

こうして見ると、せっかく秀頼のために築いたのに、秀頼が住んでいたのは1年弱で、ほとんどの期間は高台院の隠宅として使われていたことが判ります。

「最初っからこうなる(私がメインで使う)と知っていれば、こうまで豪華にはしなかった(愛情は注がなかった)でしょうね……」

今世紀最大の発見!?豊臣秀吉が溺愛する秀頼のために築いた「幻の京都新城」が発掘される


秀吉「そ、そんな事はないぞ?」高台院「さて、どうだか(笑)」

あの世から、そんな高台院の苦笑が洩れ聞こえて来そうですね。

参考:

  • 秀吉最後の城、京都で見つかる 「今世紀最大の発見」
  • 秀吉最後の城、幻の「京都新城」初めて出土 逸話に沿う石垣破却、桐や菊文様の金箔瓦

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