■これまでのあらすじ

踏みにじられた貞操…戊辰戦争で活躍するも、敵の手に落ちた神保雪子の悲劇【上】

踏みにじられた貞操…戊辰戦争で活躍するも、敵の手に落ちた神保雪子の悲劇【中】

時は幕末、会津藩士の神保修理長輝(じんぼ しゅり ながてる)に嫁いだ神保雪子(じんぼ ゆきこ)は幸せな新婚生活を送っていましたが、夫は京都守護職に就任した主君・松平容保(まつだいら かたもり)に随従して京都へ。

その後、慶応四1868年1月に戊辰戦争(ぼしんせんそう)が勃発。
鳥羽・伏見の戦いに敗れた会津藩は、その責任を修理ひとりにかぶせます。

雪子はもちろん、幕臣の勝海舟(かつ かいしゅう)はじめ修理の才能を惜しんだ志士たちの助命努力も虚しく、修理は2月22日に切腹させられてしまったのでした……。

■新政府軍が会津に侵攻!娘子隊に加わる

「あぁ、あなた……」

夫の死を知らされ、絶望の淵に追い込まれた雪子ですが、悲しんでばかりもいられません。江戸が無血開城された後も、新政府軍は「会津討つべし」と兵を北に進めて来ます。

「神保家の汚名を返上せねばなるまい」

義父・神保内蔵助利孝(じんぼ くらのすけ としたか)は、父・井上丘隅(いのうえ おかずみ)と共に出陣して行き、残された雪子は地元で「罪人の妻」として肩身の狭い暮らしを耐え忍ぶばかりでした。

白河口、磐城、二本松、母成峠……後世「会津戦争(あいづせんそう)」と伝えられる一連の戦闘において、父は負傷して退却、義父も敗走して8月23日、いよいよ新政府軍は会津若松城下へと迫って来ます。

ただ一人で屋敷に残されていた雪子は「せめて最期は家族と……」と思ったのか、井上の実家に帰りますが、「もうお前は神保家の人間だから」と追い返されてしまいました。この後、井上家に残っていた女子供や戦えぬ者は、父を含めて全員自刃。

(愛する夫を奪った会津藩に、何の未練があるだろう。このまま逃げてしまおうか……いえ、夫が最期まで忠義を尽くした会津藩だからこそ、私も最期まで忠義を尽くすべし!)

新政府軍に立ち向かう覚悟を決めた雪子は、親しかった武家の女性たち20数名で構成された「娘子隊(じょうしたい。婦女隊、娘子軍など)」に志願します。

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夫の汚名を返上するべく、娘子隊に志願した雪子(イメージ)。


「亡き夫の汚名を返上させて下さい!」

呼びかけ人である中野竹子(なかの たけこ)らの許しを得て娘子隊に加えてもらった雪子は、邪魔になる長い黒髪をバッサリと切り落として鉢巻きを締め、襷をかけて袴を穿いた戦装束に身を包みます。

「「「いざ!」」」

いよいよ城下へ乱入してきた新政府軍に対して、雪子たち娘子隊も薙刀や刀で立ち向かったのでした。

■敵に捕らわれ、貞操を踏みにじられた悲劇の最期

さて、会津若松城下の戦闘は文字通り女子供までもが抵抗した激しいものであり、乱戦の中で中野竹子は被弾して討死、雪子は新政府軍の大垣(おおがき)藩兵に捕らわれてしまいました。

「くっ……殺しなさい!」

占領された長命寺(ちょうめいじ。現:会津若松市)に拘束された雪子は、潔く自刃させるよう求めましたが、敗軍の女性にそんなことをさせたら「もったいない」と考えるのが戦場の常識。

「……俺たちが『楽しんだ』後にな……」

8月25日、会津若松での戦況を視察した土佐藩士の吉松速之助(よしまつ はやのすけ)は、散々になぶられ、ボロボロにされた雪子の姿を憐れみ、大垣藩に対して釈放を要請します。

「賊軍とは言え、婦女に対してかかる凌辱を許せば、新政府に対する人々の支持が得られないばかりか、残る賊徒の闘志を煽ることにもなりかねない。即刻釈放、あるいはせめて自決を促すべし!」

しかし、大垣藩は「よそ者の指図は受けぬ(≒本音:まだ楽しみ足りない)」として要請を拒絶。

(もしかしたら、雪子が女性ながらに大立ち回りを演じて武勇を発揮し、大垣藩も多数の犠牲を出してしまった恨みがあったのかも知れません)

許しがたい事ではあるが、新政府軍同士でのもめ事は避けたいし、無理やり助け出そうにも多勢に無勢。第一、そこまでのリスクを冒す義理もありません。

「……やむを得まい」

速之助は、再び雪子の元へ戻って脇差を貸し与えます。

「……忝(かたじけの)う存じます……」

慶応四1868年8月25日、雪子は獄中に自刃。
愛する夫の後を追ったのでした。享年24歳。

■エピローグ

踏みにじられた貞操…戊辰戦争で活躍するも、敵の手に落ちた神保雪子の悲劇【下】


激戦の末、ボロボロになった会津若松城。Wikipediaより。

かくして多大な犠牲を払った悲劇の末に成し遂げられた明治維新。日本国の未来を案じて一致協力を訴えた神保修理の正しさは証明されたものの、会津藩は永らく「朝敵」「賊軍」の汚名に甘んじさせられたのでした。

たとえ命を落としてでも、広く公益に供する視点に立って、正しいと信じたことをどこまでも訴え続けた愚直な心意気は、雪子はもちろん、現代に生きる私たちの胸も強く打ち続けることでしょう。

【完】

※参考文献:
阿達義雄『会津鶴ヶ城の女たち』歴史春秋社、2010年1月
中村彰彦『幕末会津の女たち、男たち 山本八重よ銃をとれ』文藝春秋、2012年11月
宮崎十三八・安岡昭男『幕末維新人名事典』新人物往来社、1994年1月

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